【小説】5度目の朝は、キミの隣で寝かせて。(2)
莉奈は3年前のあの日まで誰よりも明るかった。アルビノの体質で生まれた莉奈の白い肌は、莉奈が屈託なく笑う時だけぱっと明るく染まる。その笑顔をみているだけで私は幸せだった。
でも、いつからか莉奈のことを友達として見れなくなった。
好きになってしまったから。
莉奈のことを。
その気持ちは罪悪感に駆られた今も変わらない。私は、昔からずっと莉奈のことを愛してる。
*
賑やかだった教室は、授業が始まると静まり返っていた。
1限は世界史。みんな黒板に刻まれた歴史を目の前のノートに必死に書き写している。
先生の声とペンが走る音。
その二重奏を私は右から左へと聞き流してた。
私はぼぅっとしてた。
私のノートは真っ白なままだ。なんとなく、今日は何もする気が起きない。莉奈は今も窓越しに景色を見つめているのだろうか。授業中だから後ろを振り返れずもどかしい気持ちに駆られる。右手に持ったシャーペンを一回転、二回転と円を描くように回し、私は窓越しにみえる空に視線を移した。
そういえばあの日も、今日と同じくらい雲一つない空が広がってたっけ、心の中でそう呟いた。同時に、セピア色に染まった3年前の記憶が再び頭の中に浮かびあがる。今回はより濃く、より鮮明に。
夏が終わりを迎えようとしていた9月の初旬。ヒグラシが最後の歌を奏でていた頃、母と私は週末を利用し京都の祖母の家にいく計画を立てた。夏休みは終わったばかりだというのに、旅行に行けるなんてと胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
でも、やがて興奮は収まり莉奈のことが頭に浮かぶ。京都の庭園を一度でいいから自分の目でみてみたいと、私に携帯で開いた写真を見せながら目を輝かせて言った莉奈の顔が、頭から離れなかった。私は一度深呼吸をしてベッドの上に置いた携帯を手にした。莉奈に電話をかけ、事の経緯を全て伝える。その上で莉奈も一緒にいこうと言った。すると「行きたい、行きたい。」と声のトーンがあがり、莉奈も興奮していることが電話越しにでも分かった。私は一度電話を切り、今度は母に事の経緯を伝える。母は、向こうの親御さんが了承してくれるならいいよと言ってくれた。陽だまりのように微笑む母の顔が、より輝いてみえた。
そして迎えた当日。私達は京都にいた。昔ながらの日本らしい家屋に、写真でしかみたことない庭園やお社に私も莉奈も感嘆のため息を零すばかりだった。
馴染みがない場所での、莉奈と過ごす時間。なんだかとても不思議でずっとふわふわとしていた私は、ふいに莉奈と目が合う度に鼓動が早くなっていた。
小さな喫茶店に入り昼食を食べていた時、思い出しかのように母が口を開く。
「莉奈ちゃん、お父さんもお母さんも心配だろうから夜は電話してあげてね」
「大丈夫です。一応電話はしますけど、私だけが旅行に行くなんてずるいって弟が駄々を捏ねちゃって、向こうも3人でキャンプにいくみたいなんで。きっと楽しくて私のことなんか忘れてますよ。」
莉奈は、両手でそっと掴むように手にしていたサンドイッチを一度皿に置き、母に微笑んだ。
母はその言葉を聞いて安心したのか優しげな眼差しを莉奈に向けた後、陶器で出来たカップに手を伸ばした。
「なら良かった、ほら莉奈ちゃんもお茶飲んで。」
私と莉奈の前に少しだけ湯気が立ち昇るお茶が置かれる。私はそっとカップを持ち、何度も息を吹きかけてからようやく啜った。隣をみると莉奈も同じ動作をしているようだった。
「あなた達二人とも猫舌なの?」
母はそう言ったあと笑みをこぼし、私達もそれにつられ顔を見合わせて笑った。
本当に幸せだった。
莉奈との初めての旅行で、私の心はずっと満たされていた。
もし過去に戻れるなら、もし神様がいるのなら、私は迷わずこの瞬間を選ぶ。
食事を済ませた後、莉奈の提案で鴨川大橋を見に行くことになった。
アスファルトから蒸されたような暑さが足先から身体まで伝わる。
まだ暑さの残る京都の街は莉奈の体質的に良くないと思った私は近くの商店街で日傘を買ってあげると、莉奈は満面の笑みを私に向け「ありがとう大切に使う」と言ってくれた。
古風な民家が立ち並ぶ小道には、和菓子や小物が売られていた。いかにも京都らしい風情に心が踊った。
きっと莉奈も同じ気持ちだったと思う。
いや、私以上だったのかもしれない。
あんなに目を輝かせた莉奈をみるのは、初めてだったから。
少し歩くと、橋がみえたよと母が指を指す。
ほんとだと莉奈と私は二人揃って声をあげた。
もう橋は間近だった。
あと5歩程度で橋だという時、私の側でひらりと葉っぱが舞い落ちたような気がした。
いや、正確には気がしただけだった…。
葉っぱだと思ったそれは、実際には莉奈で事切れたかのように地面へと倒れた。
あまりにも一瞬の出来事で何が起きたかを理解するのに、数秒は佇んでしまった。
「莉奈っ莉奈!」身体を揺らし必死に声をかけるが、一切反応がない。
全身の毛穴が開いた。もしかしたら死んじゃったのかもしれないと思いかけた時、母の声で現実に呼び戻された。
莉奈の首筋に指をあてた母が声を荒げる。「明日美、脈は安定してるから早く救急車呼びなさい!!」
母の目は私の考えを悟ったかのように深い色をしていた。
10分ほどで、騒然とした橋の手前に救急車が到着した。私と母は付き添いということで同じ車両に乗り込んだ。
救急車で搬送中、何度も鳴る莉奈の携帯。
ただでさえ莉奈への心配で気がおかしくなりそうだった私は、母に電話を受けてと頼んだ。
そして知る。
莉奈の家族は、キャンプへと向かう道中に大型トラックと正面衝突し亡くなったと。
鳴り続ける電話は、全て病院からで搬送された時には既に即死だと診断されたと聞いた。とてもじゃないけど現実だと思えなくて頭が真っ白になった。閉鎖的な車内の中がさっきよりも重苦しく感じ、意識して肺に酸素を取り込まないと溺れてしまいそうだった。
不幸は連鎖するというが、なんで私達でなんで今なの?と思い、神様を心の底から恨んだ。そして、いるなら助けてよと声を発してる自分がいた。
私は自分の命を絶とうと思ったことは、今までなかった。でもこの時は、もう世界から消えてしまいという考えが頭の中の大部分を占めていた。そして泣いた。救急車の中で泣き喚いた。
「私の…せいだ。」
「私が旅行に行こうと言わなければ、莉奈の家族はまだ…」
罪悪感に駆られ心の中の叫び声が次々と口から漏れ出てくる。
そんな私をみて母は背中をさすってくれた。
「大丈夫よ。大丈夫。あなたのせいなんかじゃない。」
「触らないで!」
咄嗟に母の手を振りほどいた。勿論、母だって精一杯なことは分かってた。こんな辛い出来事が立て続けに起きて平気な訳がない。でも、この怒りと悲しみの矛先をどこに向けていいか分からない私は母に向けてしまった。
「変な優しさなんか要らないから…。莉奈になんて言うの?どんな顔してこれから会えばいいのよ!」
私が泣き叫んだ後、母はそれ以上なにも言わなかった。静まり返った救急車の中で、私の啜り泣く声だけが響き渡った。
莉奈が目を覚ましたのは、夜が明けた後だった。うっすらと明るく冷たい病院の廊下は、膝上まで水が浸ってるかのように私の足取りを重くさせた。
莉奈の病室を訪れる際は、先生にも同伴してもらうことにした。とてもじゃないけど私の口からは言えなかった。あまりにも辛い現実を私でさえ受け入れられなかったから。
先生が扉を3回叩いてからドアノブを握ると、からからと音を立てて莉奈の病室が視界に広がった。
まず母が入り、その後先生は左手を差出し私に部屋に入るようにと促してきたが他人の足をつけられたかのように私の意思では足が動かず、小さく首を横に振った。
私は…どんな顔して莉奈に会えばいいのだろう?
なんて声をかけて、どう言えば莉奈は私のことを許してくれるんだろう?
頭の中に浮かんだ疑問は私にはあまりにも重たくて、一歩足を進めては立ち止まり病室に入るまでにはそれなりの時間を要した。
やっとの思いで病室に入ると、途端にねっとりとした空気が喉に張り付いた。
そして莉奈のいる方へ視線を送ると、壁を背もたれにするようにベッドに佇む莉奈をみて胸が張り裂けそうになった。
透き通るような肌はこの部屋に存在する何よりも白く、一点をみつめるように壁に視線を置いていた。
先生が莉奈のベッド脇に立つと、「竹内さんお話があります…」そう一言告げたあと気を失っていた間に、家族に何があったかを話し始めた。
一筋の涙が莉奈の頬を伝うのがみえて、私も感情が込み上げ涙を止められなかった。
先生が話し終えた後、せめて私が隣にいてあげなければと思い莉奈を優しく抱きしめた。
どれくらいの時間そうしていたのかは分からない。少しでも、ほんの少しでも莉奈の悲しみを受け止めてあげようと、その一心だったから。狂うことのない秒針が針を進める度に、莉奈の頬を伝う涙が私の肩を少しずつ湿らせた。
でも、何かがおかしいと気付いたのはその後だった。どれだけ話しかけても目の焦点は合わず、一切口も開かない。肉体だけはそのままに魂だけが消失してしまったかのように心を感じとれなかった。まるで枯れ果てた植物の如くただベッドで佇む莉奈は、もう私の知ってる莉奈じゃなかった。
私が殺した。私のせいだ…。私が莉奈の心を殺したんだ。
病室のカーテンから溢れた日差しで、半透明にすらみえる莉奈をみて私はそう思った。
**
5限の終わりのチャイムが鳴った。
起立、礼。掛け声が聴こえて、よろよろと立つ。今日の私は、たぶんずっと心此処にあらずという状態だったんだと思う。3年前の記憶と罪悪感に向き合ってるだけで一日が終わった。
蜘蛛の子を散らすように、クラスメイトが教室から出ていく。「カラオケ、カラオケ♪」とはしゃぎながら何人かの子達を引き連れる柚沙の姿もみえた。
私も帰ろうと引き出しから教材を鞄に仕舞っている時、なんとなく後ろを振り向くとまだ莉奈がいた。
莉奈も私と同じように仕度をしていて帰ろうとしている最中だった。私は急いで鞄のチャックを閉める。
「莉奈、一緒に帰ろ。」
今の私に出来る中で最高の笑顔で言った。
あの日以来、家族を失った莉奈は近所に住む親戚の伯母に引き取られ、一緒に住んでいた。私の家からも歩いて10分程で今までにも何度か一緒に帰ったことがある。勿論、莉奈は口を閉ざしたままだけど。
時刻は16時前。陽が傾き、私達の制服はうっすらと橙色に染まっていた。いつもと同じ道を莉奈と横並びで歩き、終始沈黙という名の時間が流れる。私は何か話しかけたくて頭の中で必死に話題を探す。
「今度さ、二人でどっか知らない場所に行かない?」
前からずっと思ってたことだった。自分達の知らない場所でなら、何かが変わるきっかけになるかもしれないと思っていたから。
時折横切る車が、軽快なエンジン音だけを私達の元に残していく。こつこつと地面を踏み鳴らして生まれた私達の足音は、どこか居心地が悪そうに、小さく鳴る。
莉奈が口を閉ざしたままなことは言う前から分かってた。だから私は続ける。
「考えといて、莉奈が行きたいと思った時でいいから。ずっと待ってるから。」
言い切った後、視線を空に向けると一面が橙色に染まる空が綺麗だった。莉奈にも教えてあげようと思った時、何かが聴こえた気がした。「……ギゼ…シャ」その音が莉奈の口から発せられたことだとすぐ分かり、私は慌てふためく。
「ごめん莉奈、よく聴こえなかった。もっかい言って?」
莉奈は私の顔をみて改めて口を開いた。
「キミは偽善者だって言ったの。」
真っ直ぐに冷たい瞳を向けて、淡々と発した。
私は莉奈の言葉の意味がすぐには理解できなかった。
キミって何?なんでそんな他人みたいに…。
3年ぶりに私に投げかける言葉がそれなの?
心の中が一瞬でぐちゃぐちゃになった。
雨が降った。もうやむことのない雨が私の心を浸していく。歩くことすら出来なくなった私は、その場にしゃがみ込み泣き崩れた。
掴めるはずのないコンクリートに目一杯爪をたて、乾いたそれが濡れていくのを見て更に涙が溢れた。でも莉奈は振り返ることなく、歩みを止めることもなく、やがて姿が見えなくなった。
どれくらいその場にいたのか分からないが、私は心を整理する為にも、その場にしゃがみ込み続けていた。涙はまだ止まらない。莉奈はまだ私のことを恨んでるのかもしれない。そう思うと、ただただ悲しかった。
私だって罪悪感に駆られこの3年間何度も莉奈に謝った。でも、いつか私のことを許してくれた時、また心を開いてくれると信じてた。その時に、自分のずっと抱いていた気持ちを伝えようとも思ってた。
ずっと好きだったって言いたかった。
なのに、それなのに、もうそれは叶わないかもしれない…。
込み上げた悲しみと悔しさが、立ち上がった私を走らせた。涙を流しながら全力で走った。
息があがり、胸がキリキリと痛む。
でもそんなこともうどうでもいい。
それ以上に痛むものが私の中にあったから。
家に着くと同時に玄関で靴を乱雑に脱ぎ捨て、バタンと自分の部屋の扉を閉めた。
制服のままベッドに顔を埋め、溢れた感情を流し続けた。
「明日美…どうしたの?」
振り返ると母が扉を開き、心配そうな顔つきで部屋に入ってきていた。
母の顔をみて、余計に涙が溢れる。
もう…無理だ…。
心の中でせき止めていた何かが壊れる音がした。
「ねぇママ…女の子が…。私が女の子を好きなこと…ってやっぱり駄目なことなの…?」
嗚咽を洩らしながら私は言った。
母は、私の頭にそっと手を乗せると。
「莉奈ちゃんね?」
優しげな眼差しを私に向けた。
私は言い当てられたことに驚き、泣きじゃくった顔を上げる。
「な…んで?」
陽だまりのような笑顔を浮かべ、母は私の横に腰を掛けた。
「何年あなたのママやってると思ってるの。明日美の考えてることなんか何でも分かるわよ。莉奈ちゃんのこと好きなんでしょ、中学の時から」
私は手のひらで目元を拭いながら、頷く。
「いい?明日美よく聞きなさい。」
両手で私の顔をそっと包み、母が続ける。
「人が人を好きになることって、それだけでとっても素敵なことなの。そこに仕切りなんて必要ないのよ。女の子が女の子を好きになってもいい、男の子が男の子を好きだっていいの。」
諭すような、柔らかな言葉が粉雪のように胸の中に落ちてきた。
嗚咽を洩らしながらも、初めて言った相手が母で良かったと思った。心から。
私はどこか罪の意識を感じていて、誰にも言えなかった。女の子が好きだと、莉奈のことが好きだと口に出せなかった。
「それにね、ママは思うのよ。人は、時として自分の考えから外れたものや珍しいものを、異物として排除しようとする。もしかしたら明日美みたいな子を受け入れない人だっているかもしれない。でもね、全員が全員同じでいることを善しとするなら、ロボットと変わらないと思うの。多種多様な思考を重ねることで人は文明を発展させてきた。それが出来なくなったら人は人として終わる。だから明日美は明日美のままでいいのよ。莉奈ちゃんを好きなことをむしろ誇りに思いなさい。」
「…ありがとう…ママ。ほんとにあ…りがとう。」
救われた気がした。何もかも。ずっと溜め込んでいた感情が濁流のように押し寄せ、子供みたいに泣き続けた。母の胸元に顔を埋め、痛めた爪を庇うように両手を添えた。
「大丈夫。大丈夫よ」
背中を擦りながらかけてくれる母の温かい声が、私の心を優しく慰める。羽毛のように柔らかい母の身体が、甘く朗らかな母の匂いが心を癒やしていく。心の中で降る雨がやんだのを感じた。
明日、莉奈にもう一回謝ろう、その上で一度自分の気持ちを伝えようと思った。たとえ私の思いが叶わなくても。私が莉奈を好きであることに変わりはない。母の言葉が私に勇気をくれた。
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