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産まない選択に負い目を感じる必要なんてないのに

夏の朝、メイクをしながら都知事選の街頭演説のYouTubeに耳を傾けていたら、ある候補者の言葉に図らずも涙がこぼれて自分でもびっくりした。

その一節は要約するとこんな感じだった。

日本の少子化を、産まない女性のせいにする政治はもう終わりにしたい。

子育てする人の孤独に寄り添うだけでなく、いまはいろんな人生の選択がある。そのどれをも尊重する社会をつくりたい。

わたしはその人の支持者ではないし、演説を聴いて支持者になったという話でもないのだが、そのときはじめて自覚したことがある。

産まない選択をした自分が、見えない誰か(国? 社会? 世間?)から責められているような気がずっとしていたこと。
少子化、少子化と叫ばれるたびに、心のどこかで責任を感じていたこと。
産まない人生も尊重されるべき人生だと、誰かに肯定してもらいたかったこと。

少子化対策に力を入れると言っていたその人が、実質少子化を進めているわたしのような立場の人の選択を肯定したことが、意外でなんだかうれしかった。

子どものいる人・いない人、というカテゴライズ

あたりまえだけれど、わたしたち人間は一人ひとり違う。性格も考え方も立場も状況も。にもかかわらず、集団になるとなぜかカテゴライズされてしまうし、自分も無意識にカテゴライズしてしまうことがある。

カテゴライズが生じると、マジョリティとマイノリティができる。マジョリティに属すると安心するが、自分が平凡な人間にも思える。マイノリティに属すると不安を感じるが、人と違う自分が誇らしくも思える。

どちらがいい・悪いということではない。単に、ある指標で集団をグルーピングしただけに過ぎないのに、わたしはその机上のグルーピングにたびたび振りまわされてしまうのだ。

以前、仕事のプロジェクトで、10人くらいのメンバーが集まったときがあった。子どものいる人が半数以上を占めていて、ほとんどが女性。

初対面同士も多いチームだったので、共通の話題として子どもの話が出るのは頷ける。○○さんのお子さんはいくつとか、最近○○にハマっているとか、子育てしていてこんなところが大変だとか、そういう話にはわたしも楽しく参加した。子どもの話というのは、つまりはそのチームメイトの話だから、純粋に興味があった。

わたしがモヤモヤしたのは、何度か耳にしたこんな言葉。

「子育てしながら働いている人は本当にえらいよね」

子育てと仕事の両立が大変なのは事実だろうし、わたしも「すごいな」と思うから、いったいなぜモヤモヤするのか最初はよくわからなかった。でも、深く考えていくと思いあたる。わたしはたぶん、カテゴライズされた(と感じた)ことに辟易したのだと思う。

「子育てしながら働いている人」というグループができると、おのずと「子育てしていて働いていない人」「子育てしていなくて働いている人」「子育てしていなくて働いていない人」というグループも出現する。「子育てしながら働いている人」=「えらい」という等式は、それ以外のグループからすると「それに比べてえらくない」と言われているようにも聞こえてしまう。

とくに、「子育てしながら働いている人」がマジョリティだったあの場においては、マイノリティのわたしが「子どもはいないけどわたしもがんばってるしえらい!!!」と自信をもつことはできなかった。「少子化を進めている身分で、そんなに苦労せず楽しく毎日を送ってごめんなさい」という気持ちにもなった。

もちろん、言葉の主はそんなことは思っていないだろう。子育ての大変さを労っただけだ。
(もしかしてもしかすると、子育てをしていない人に対する嫌味だった可能性もなくはないけれど、それはたぶん違うと思う)

しかしながら、たとえばこれが「子育てしながら働いている人」全体ではなく、特定の人に向けた言葉だったとしたら。「きのうは仕事が全然終わらなくて、子どもを寝かしつけたあとに続きをやってさ……」というようなAさんのエピソードを受けて、「それはがんばったね」と言うのであれば、モヤモヤすることはなかったんじゃないか、と思ったりするのだ。

これってべつに、子どもがいる・いないの話だけではない。「最近の若いやつは」「そういうとこB型っぽいよね〜」「うちは男の子だからいい大学に行かせないと」……などなど、相手や周囲をモヤッとさせる無意識のカテゴライズは世の中に蔓延っている。

無自覚の価値観の押しつけ

わたしのまわりには、子どものいる人もいない人もいる。結婚している人もしていない人も離婚した人も再婚した人もいる。わりと多様性のある環境だと思っているし、親や友人から「子どもはもつべきだ」などと言われたこともない。

結婚後、親戚の人に「(子どもを)期待してるよ」と言われたり、夫側の親戚の人に「(結婚したということは)子どもほしいんでしょ?」と言われたり、当人にとっては悪気のない言葉にモヤッとしたことはある。でも、どうやらわたしにその気があまりないと感じとってくれたのだろう、それ以上なにかを言われることはなくなった。

そんなわたしでさえ、産まない選択に負い目を感じてしまう瞬間があるということは、そうではない環境に生きている人の心には、きっとわたし以上の負荷がかかっているのだろう。

人は価値観をすぐには変えられない。自分と違う価値観をもつ人がいる、と頭ではわかっていても、目の前の相手が自分と違う価値観をもっている可能性をつい忘れて、自分のものさしでものごとを語ったり決めつけてしまったりする。

わたしだってそうだ。「子育てをしている人は思いどおりに仕事ができなくて苦しんでいる」と勝手に思って、子どものいる友人の前では自分の仕事の話をしないようにしていた。

そんなこと、本人に聞いてみないとわからないのに。もし友人が「子どものいない人は子どもがいなくて苦しんでいる」と勝手に思って、わたしの前では子どもの話をしないようにしていたら、ものすごく心外でショックだろう。配慮のつもりが価値観の押しつけになってしまうことも、往々にしてある。

人を安易にカテゴライズせず、目の前の個人に目を向けること。
対する人が集団になればなるほど、カテゴライズして理解しようとしてしまうけれど、できるだけ解像度を高くして個人を見つめること。
そんなつもりはなくても、誰かを否定したり排除したりするコミュニケーションになっていないか、きちんと考えること。

社会のなかで生きていれば、そんなのはただの理想論かもしれないし、すべての人が100%傷つかない方法などないとわかっている。

それでも、「いろんな人生の選択を尊重する」という街頭演説が不意にわたしの心を軽くしてくれたように、目の前の人、あるいは世の中の誰か、あるいは自分自身の心に、できるだけ寄り添おうとするやさしさを忘れたくないと思うのだ。


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