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選択子なし夫婦の7年目の日常をありのままに綴ってみた

わたしたち夫婦は結婚7年目、40歳。東京でふたり暮らし。

「子どもはいない“けど”幸せ」とは言わない。
わたしにとっては、子どもがいることが幸せの前提ではないからだ。

「子どもがいない“から”幸せ」と言うつもりもない。
子どもがいる幸せを知らないわたしに、比較はできないからだ。

子どもの有無は関係なく、わたしは幸せに暮らしている。ひとりのころも幸せだったが、自分ひとりで感じられる幸せに、ふたりで共有する幸せが加わった感じ。まぁ、たまにガチ喧嘩もするけどね。

「夫婦ふたりの生活ってどう?」と聞かれることがあるが、基本的に結婚当初となにも変わらない。わたしたちは結婚前から一緒に住んでいたので、もっといえばそのころから変わっていない。生活スタイルも、ふたりの関係性も。

その変わらない生活に感じる心地よさと、一抹の不安について、ありのままに綴ってみようと思う。

平日はほどよい距離感、休日は思いきり遊ぶ

夫婦の距離感でいえば、わたしたちは「やや近い」寄りの「ほどよい」部類だと思う。

夫は会社員で、日勤と夜勤がある。わたしはひとりで会社を経営していて、外に出ている日もあれば自宅にいる日もある。

平日にふたりで過ごす時間は、夫が日勤のときの夕食〜就寝の数時間。わたしが自宅にいて時間に余裕があれば自炊をして、余裕がなければテイクアウトやデリバリーをして、わたしが外にいて時間が合えばふたりで外食することもある。夫は料理がそんなに得意ではなく、夜遅く帰宅してからごはんをつくるのは難易度が高いので、料理はおもにわたしが担当している。その代わり、わたしがきらいなお風呂掃除は夫担当。そのほかの家事はローテーション制だ。

一方、夫が夜勤のときは生活が思いきりすれ違う。午前中の帰宅時や夕方の出勤時に少し顔を合わせる日がある程度。マメな性格の夫は毎日「行ってきまーす」などのLINEをくれるので、そんなに会っていない感じはしないのだが、週末に「なんかひさしぶり」と他人行儀な挨拶を交わすことも。

ちなみに夫婦の寝室はなく、それぞれ自室をもっている。生活リズムが合わないという理由もあるが、ひとりになりたい時間をふたりとも欲するタイプのため、いま住んでいる戸建てを買う前の賃貸マンション時代から別寝制度はつづいている。

そんな感じで、平日はほどよい距離感。その少し開いた距離を埋める時間に休日をあてる、というのが、わたしたち夫婦のやりかただ。

もともと同じ趣味がきっかけでつきあい、おいしいものを食べたり飲みに行ったりすることも好きなわたしたちは、友だち同士のようにだいたい毎週遊びに出かける。その遊びかたは、お財布が少し豊かになった以外は若いころとなんら変わらない。どこかに出かけた帰りに飲みに行って、歌いたくなってカラオケに行って、その勢いでダーツに行って、深夜3時にタクシーで帰宅した日なんかは、「ほんっと変わんないな!」と自分で自分に感心するほど。

そういう生活を「まだやってんの〜?」と揶揄されたこともあるけれど、好きでやっていることをなぜ卒業しなければならないのか。気持ちの赴くままに行動できているとき、わたしはとても幸せを感じる。

夫もわたしも友だちがわりと多く、各自予定を入れている日ももちろんある。わたしは出張や旅で隙あらば遠出するタイプなので、数日家をあけることも多い。ふたりの時間だけでなく、一人ひとりの時間も尊重し合えていることは、わたしたちの幸せな暮らしに不可欠な要素といえる。

変わらない幸せは、不安と紙一重?

変わらない生活に不安を覚えることがあるのは、わたしよりも夫のようだ。

夫は「幸せだからこそ、これでいいのか不安になる」と表現する。たしかにその気持ちもわからなくない。困難を乗り越えてこそ生きていることを実感する、というような。

わたしは自営業なので、新しい挑戦をしようと思えばできる。実際、することもある。「このまま現役引退まで倒産させずにつづけられるんだろうか」という不安もつねに頭の片隅にある。だから、変わらないとはいえ、生活(おもに仕事面)での変化や心情の変化は夫よりあるのだろう。

夫は、わたしよりも「子どもがほしい気持ち」の割合が多い。わたしが0.5割なら、3割くらい? わからないけど。

以前、子どもについて話しているとき、「自分の生きがいを子どもに求めようとしていない?」(それが悪いということではない)と聞いたら、「そうか、それだ!!」と深く納得していた。自分以外の存在の世話を焼きたくて保護犬を迎えた友だちがいるが、その気持ちにも通ずるところがあるのかもしれない。

我が子の存在や子育ては、きっと親にとっての生きがいになるのだろう。それ自体はすてきなことだと思うが、生きがいがほしくて命を世に送り出すということを、わたしはどうしても受け入れられないでいる。そこに納得していたら、夫の生きがいのために子どもをもつ道をもう少し検討したかもしれない。

子どもからしか得られないであろう生きがいがあるのと同様に、別のことでしか得られない生きがいもあるはずだ。命を育てる行為にともなう責任の大きさを前にすると、つい「仕事なんか」「○○なんか」と萎縮してしまうが、自分が感じる生きがいに本当は優劣などない。

だからわたしは、夫の生きがい探しを全力で応援しているし、役に立てることがあればなんでもしたい。生きがいがなくても幸せ、という考えかたに変わるときが来たなら、それでもいい。

「子どもをもたなかったせいで、夫の生きがいをつくれなかった」と将来悔やむ必要はない。そう思っているけれど、もしそんな日が来たらどうしよう、という不安がたまに頭をよぎることも事実だ。

夫と家族になる意味

誰の言葉だったか、「自分の親が亡くなったとき、わたしが子どもを育てている意味がわかった気がした」と言っていたのが印象に残っている。

我が子の存在や子育ての慌ただしさが、親をなくした悲しみを和らげてくれた、という意味だった。

それを聞いて、たしかにそうかもしれないと思った。わたしには子どもがいないし両親は健在なので想像に過ぎないのだが、いつか必ず来る別れのときに心を支えて前を向かせてくれるのは、親と自分の血を未来へ受け継いだ我が子なのではないかと思ったのだ。

わたしの場合は、子どもを支えにすることができない。夫と、もし犬をお迎えしていたらその愛犬と、友だちと、仕事や趣味と、自分自身の精神力で乗り越えなくてはならない。その恐怖は想像にもかかわらずリアルにわたしを襲う。

そのときのために、というわけではないけれど、夫婦の絆を強くしておきたいと思うようになった。もともと結婚願望があまりなかったので、「結婚している」という事実に対して特別強い思いを抱くこともなかったが、わたしのなかで「夫と家族になる」ということが以前より意味を帯びてきている気がする。

夫婦とは不思議な関係だ。他人なのにいちばん身近な家族。なにかしらのきっかけで他人に戻る可能性もあるが、血のつながった家族より強い絆で結ばれる可能性もある。

家族になって7年目のわたしたちが、これからどんな出来事を経て名実ともに家族になっていくのか。我がことながら、ちょっとひとごとみたいに楽しみにしている自分がいる。

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