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連日の妊娠出産ニュースで感じる「モヤッ」の正体は

「子どもを産み育てる人生」にあまり興味をもたずに生きてきたわたしは、ふだん、子どもがいないことについて考える時間は少ない。

わたしの頭のなかといえば、いま受けている仕事をどんなふうにしあげようかとか、今月の売上やばいなとか、あのライブのチケットを申し込まなきゃとか、来年はどの国を旅行しようかとか、そのほとんどが仕事と趣味の関心ごとに占拠されている。

ただ、なにかがトリガーとなって、子どもがいないことをふと意識する瞬間もある。

「やっぱり子どもがいたほうがいいんだろうか」と思うわけではない。以前のnoteに綴ったように、その迷いは38歳の約1年間の逡巡で嘘みたいになくなってしまった。

そうではなく、いつか読んだ小説のワンフレーズ、戦争や闇バイトのニュース、誰かに言われた言葉や誰かに言ってしまった言葉、そういうことを無意識に思い出してぐるぐる考え始めるのと同じように、子どもがいること・いないことについて気づけば思惟しているときがたまにあるのだ。

おめでたいはずのニュースに感じる同調圧力

そのトリガーになるもののひとつが、友人や著名人の「妊娠出産報告」である。

40歳のいま、友人からの妊娠出産報告はだいぶ少なくなったが、2人目・3人目のお知らせはたまにある。著名人の妊娠出産のネットニュースにいたっては、毎日なんじゃないかと思うほど目にする。

そうした報告を目にして最初に思うのは、「おめでたい」。これは本心だ。子どもを授かることは奇跡だと思うから、友人であればなおのこと「本当によかったね」と思う。明るい気持ちになる。

でも、同時に湧きあがる「モヤッ」をわたしは見過ごせない。

子どもがほしいと思っている人なら、誰かの妊娠出産報告にモヤモヤや焦りを感じることはあると思う。そうではないわたしは、いったいなにに引っかかっているんだろう?

30代前半くらいまでは、純粋に「おめでたい」と思っていた気がする。それがいつしか「モヤッ」とセットになってしまった。そう、おそらく、わたしが子どもをもつかもたないかを真剣に考え始めたころから。

この「モヤッ」の正体を自分で分析した結果、おもにふたつの感情から成り立っていることがわかった。

ひとつは、「結局みんな子どもをもつ選択をするんだな」という、同調圧力を受けたときに感じるような疎外感や孤独感。とくに、著名人の妊娠出産ニュースを毎日のように見ていると、「この世の人間のほとんどは子どもを望んでいるのに、そうではないお前はなんなんだ」と言われている気がしてくる(勝手に)。

もうひとつは、「おめでたい」「よかったね」と思う一方で「うらやましい」という気持ちが少しも湧いてこない、ある意味矛盾した心境への戸惑い。誰もが祝福するような絶対的なできごと(もちろんすべてが幸福な妊娠出産というわけではないと思うが)のはずなのに、なぜわたしはそこに興味が向かないのか。

どちらも、「みんなとは違うかもしれない自分」を突きつけられたときの居心地の悪さからくる「モヤッ」なのだった。

人と違う人生に憧れていたはずなのに

わたしは昔から、人と違うことに憧れるタイプだった。

美術の高校・大学に通っていたから、「個性」はいつも正義だった。人と違う思考や発想や生きかたがしたくて、でもできなくて、平凡な自分に落胆したり憎悪したりしながら人生を送ってきた。

(わたしは人種・セクシャル・宗教など社会的マイノリティには属していないので、マイノリティゆえの苦悩を経験していないからこその浅はかな悩みかもしれない、とも思う)

人と違うことにずっと憧れていたのに、どうして、子どもがいないというマイノリティ性に限っては不安を感じる瞬間があるのだろう。

人間の根源にかかわりそうな事柄だからだろうか?

子どもをもたない話を友人にしたとき、彼女からこんなことを言われた。「好きな人の遺伝子を残したいと思うのが本能なのに?」と。

「本能」という言葉はパワーワードすぎる。

種の保存本能というものが人間に本当に備わっているのかは門外漢のわたしにはわからないけれど、子孫を後世に残すことが生物の本能だと言われたら、「そうだよね〜わたしってば本能が欠如してるのかもね〜アハハ」としか返しようがない。本能を凌駕して子どもをもちたくない理由があるわけでもなく、「ただ興味がもてない」というのは、「本能の欠如」以外に説明のしかたが見つからない。

この多様性の時代に、そんなこと言われましても。

ふだんはそう思えるのだが、「みんなとは違うかもしれない自分」についてぐるぐる考えているときは、すぐには割り切れない。

誰かの妊娠出産報告を聞いたとき。
親子の愛が美しく描かれたドキュメンタリーを見たとき。
子どものいる友人たちが楽しそうに子育ての話をしているとき。
子どもがいる(ほしい)前提で話を振られたとき。
「結婚しない」と言っていたドラマの主人公が、結局は家庭を築いてハッピーエンド的な終わりかたをしたとき。

自分の人生の選択に自信をもっていたつもりでも、「あれ? わたしってやっぱり変?」とついつい思ってしまうのだ。

数年後、あるいは数十年後には、そう思わなくなる日がくるのだろうか。できれば解放されたいけれど、人生に100%割り切れることなんてないような気もする。

とりあえずわたしにできることは、モヤモヤをそのまま蓄積しないで、できるだけ分析して言語化してこうして文章に残すこと。自分で自分の心を少しでも軽くする術をもっていることは、この生きづらい現代社会をサバイブするうえで本当に大切なことだなぁと、つねづね思っている。

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