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【#3 食べたことない】ミラノのドリアかミラノ風ドリアか。

「バレンタインの、一回板チョコを溶かしてから、わざわざ作り直すチョコ。あれ謎行為じゃないですか?」「え、あれこそが、この世で一番尊いでしょ。」「・・・たしかに、謎で、無駄で、尊い」(『青葉家のテーブル』より)

謎で、無駄で、尊い。

明日が6時起きだと考えながら注文する、24時のお湯割りもそう。

ジョッキに入ったお湯割を飲みながら、今自分がいるこの居酒屋で食べたことのないモノはないと思った。実際はそんなことないのだけど、そう思うのはきっと、それを頼んで、運ばれてきて、口に入れる、までの一連の画を想像するのがあまりに自然な感覚として思い描けたからだ。
いつぞや『ためしてガッテン』で山瀬まみが「私は頭の中にキッチンがあって、レシピを読みながらそのキッチンで料理できるの。出来上がりを食べて、あ、これちょっと薄いから醤油足したほうがいいな。とか、細かいところまで全部頭の中で味を確かめられるんです」と言っていたのを思い出す。
食べたことがないのに全部食べた、という謎の確信。
"ミラノ風ドリア現象"とでも呼ぼうか。

***

"いい味を覚える"なんて背伸びだし、そもそも自分の舌はすっかり煙草でダメになってる。だから、部活終わりに走って行った蛇口の水のうまさとか、帰り道に無限に食べられたマックのポテトとか、ミラノがどんな街かも知らないで何度も食べたあのドリアとか。そういうものを知っている自分で良かった。

味そのものではなくて、記憶も合わせて初めて食事と言えるだろう。
あの店のアレを食った。より、
あの店にあの人と行って、その日自分は午前中に最悪な出来事があったせいで気持ちが塞いでいたから、夕方に食べた料理はとても美味しかった。
の方がリアルだ。

リアルの中でも、人が料理をする姿や、台所の様子、冷蔵庫の中身などを見て、その人の暮らしを想像するのが楽しい。食事に関する全ての行為は、他人の暮らしや自意識を一目で理解することと結びつく気がする。「食べる」ということ自体が当たり前の行為でも、その場面は言葉よりも一層その人を写すように思うのだ。だから、料理をするシーンや飯を食うシーンの多い映画が好きだ。生の舞台においても、役者に食事をさせることができたらどれだけいいだろう。『そこのみにて光り輝く』でフライパンから直でチャーハンを貪る菅田将暉は、北海道の田舎で貧しい暮らしをする青年の苛立ちがそのワンシーンに溢れていたし、それを読み取らせる程、飯を食う彼は無防備だった。

「生活」と「暮らし」の含むニュアンスの違いが存在するなら
「摂取」と「食事」も案外似たような違いが存在するものかもしれない。

そうならば、摂取に記憶を結びつける作業が食事なのだろうか。食事と暮らしの片一方からもう一方を想像するのだとしたら、それは想像というよりも翻訳という感覚に近いのかもしれない。

***

乙川優三郎『ロゴスの市』は語学に生きる人の話だ。
翻訳家の男は、英語の書物を日本語に訳すため、二つの言語に精通しようと学び続ける。
情報を訳すだけでは一つの作品としてのまとまりも、匂いも消えてしまう。
片方の言語をほどき、もう片方で再構築する意訳という作業は無限に広がる世界だ。
彼は言葉や表現を一つずつ、文脈や背景と照らし合わせながら迎撃していく。
終盤、二言語の語彙の他に蓄えのない男は旅に出る。自分が翻訳した作家が暮らした土地を見て回る旅行の終着点は、ドイツの見本市だ。

三年生にして一年ドイツ語の授業に混じっている。自分は語学を愛せなかったという気持ちでアイン、ツヴァイ、と唱えている。
ドイツの白ソーセージを食べてみたい。
傷みやすい白ソーセージは、朝から昼に食すのが一般的らしく、週末は午前中からビアホールが繁盛しているらしい。
お湯からあげられたホカホカのソーセージを皮から切り出し、ビールと一緒に、流し込み。らしい。
この「らしい」というのがなかなか腹立たしい。

いつか、ミュンヘンで朝食を。

オケタニ

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アララ
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