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川村元気に去勢され、みすみす凡人に堕ちゆく新海誠/『すずめの戸締まり』
呪詛のようなnoteです。
今回も一応映画レビューではあります。
私自身、別にこの『すずめの戸締まり』が嫌いなわけでもございません
もちろん好きな作品の一つです
しかし、秒速をはじめとした様々な新海誠作品を見た中で一つ思ったのです
別にこれ新海誠じゃなくていい
今回のすずめの戸締まり、なんというか新海誠の作家性というものが失われ
ただただ新海誠というブランド力で売っている気がしてならないのです
まず、ヒロインの岩戸鈴芽ちゃん
この娘、いままでの新海誠作品によくある(というかすべて)思春期特有の葛藤や、弱さなどを一切全くもって見せないえらく陽気で明るいキャピキャピJKなのです
前作の『天気の子』なんかは、前述した弱さや葛藤が如実に描かれ、また秒速などは言うまでもありません。
ですが、本当に今作は一切そういったものを感じさせない
言わせてみれば、画質の良くなった『星を追う子供』です
川村元気がプロデューサーになってからというもの、新海誠は国民的アニメ監督への階段を駆け上がっていきました
しかし、その過程で彼の作家性、尖った部分というのは大衆向けにどんどん丸くなっていき、ついには自分の描きたいものでさえ見失っていってしまっているようにも感じられます
そう、タイトルにもある通りこれは川村元気に去勢されたといっても過言ではありません
先日、秒速5センチメートルの実写化を受け
新海誠が出したコメントを引用します
《新海誠コメント》
私が二十年近く前に監督したアニメーション映画『秒速5センチメートル』は、とても未熟で未完成な作品でした。
しかしその未完成さ故に、今でも長く愛し続けてもらえている作品でもあります。 初期衝動──未知への憧れと畏れだけをただぶつけたあのような映画は、今の自分には決して作れないでしょうし、再現も出来ません。
はい、このようにあの作品を未完成で未熟と形容しています。確かにそうかもしれません。今の新海誠を見れば、まだまだ脚本もなにも稚拙でした。しかし、それでも彼にしかできない作品ではありました
彼の作家性というのは、男女の恋愛がさまざまな不可抗力によって引き裂かれ、拗らされ、そしてただただ自分のエモでそれを見せつける。
言わせてみれば、ものすごく気色の悪いものです。しかしながらそれがよかった。私達はそれに魅せられ、秒速病となってしまった
しかし、そんな気色悪さはどこへやら。
『すずめの戸締まり』では、ただただフレッシュな鈴芽ちゃんと宗太さんが一緒にハネムーンしてるだけです
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最初にも言いましたが、これは別に新海誠がわざわざ描く必要はないのです
それこそ、山田尚子や岡田麿里でもなんら問題ないわけです(なんなら結構興味ある)
どこかの人外老害変態爺が言っていたように
客にどう見られるか、というのを軸にしてしまうともはやそれは映画ではないのです
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確かに映画も商売、売れなきゃ続きません
ですが、アニメ監督然り、作家というものは元来、金儲けではなく自らの溢れんばかりの気持ち悪いものを吐き出す生き物ではないのでしょうか?
さて、ここまで延々と呪いの言葉を吐いてまいりましたが、もう私達はかつての彼の面影を見ることすら叶わないのでしょうか
それは、彼次第かと思います
何当たり前のことを、と言われそうですが、一旦聞いてください
彼はおおよそまだ未完成で未熟で、確固たる自分の作風やエモというのが確立できていない
言うなれば、まだ作家としては青二歳のペーペーというわけです
彼が、去勢されても尚、精力有り余る変態じじいに進化できるのか
彼がどのような道を選ぶのか、それもまた彼の描くストーリーの一つでしょう
まずは次回作、どうやら語尾に「にゃん」がつくそうなので、期待して待つと致しましょう
ではみなさん良い夜を
愛をこめて アラカルト