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ラグビースカウト河原清明の自己紹介です

皆様、初めまして!の方々とお久しぶりの方々!

福岡市博多五町の「競技の問屋合同会社」CEOの河原清明です。

53歳になった平成31年2月22日に、法人設立いたしました。

改めて、よろしくお願い申し上げます。

今回自己紹介として綴ります。

現在、自身が事業中核として取り組んでいるのは

1.ラグビー選手及び指導者のスカウト活動
2.ラグビークラブ&チームの強化部門受託
3.ラグビー選手PR映像制作及びチームへの紹介
4.ラグビー選手及び指導者のキャリア支援

です。

なぜ1から4の事業なのか?

①ラグビーが専門であるから
②ラグビーの人口を増やしたい
③ラグビー競技に長く関わって貰いたい

以上が事業の中核とした理由です。

現在1チームとスカウトとして契約し、稼働しております。

ラグビーフットボールの業界に入り約40年近くなりました。
そこまでの経緯を自身の経験を明らかにしながら綴ります。

普通に勤めて定年を迎える生活を想定していた

結論から述べると、自分が現在のスポーツアナリストをやるとは、
1mmもありませんでした。
普通に勤めて60歳で定年退職して、ゆっくり余生を過ごすのかなと…
なぜなら特段優れた能力もなかったので…


”変わりもん”と言われ続けて

河原清明─昭和41年9月21日大阪市でこの世に生を享けました。
生まれてから暫くは運動も勉強も遊びもできないという人間だったと…
「こいつは大丈夫か?」「何か変わった奴だ」という評だったようです。
確かに幼稚園と小学校までは、先生にシバかれ怒られてばかりで、
褒められた記憶はまったくありませんでした。

“ドンケツ”お前は終わっている

友達とは仲良く遊んでいたようですが、
いつも何をやっても大阪弁で言うところの“ドンケツ”でした。
つまり1番はおろか、いつも出来上がるのは最後という人間でした。
運動や勉強そして遊びもできない、超底辺にいる人間でした。
周辺からは「お前は終わっている」とまで言われてました。
ただし両親には「人に迷惑をかけるな!」と命じられた以外は
自由にやらせてもらいました。
ただ…幼稚園・小学校が終わると帰宅してテレビと漫画ばかりでした…

なぜか野球をはじめる

小学校6年生春の日、父親からサンケイスポーツを渡されました。
「一回受けたらどない?」と誌面内を示されました。
その内容は、『住吉大和川リトルシニアリーグ』のテスト開催でした。
野球は近所の友達と原っぱでの遊び程度であり、もちろん下手くそでした…
「硬球か?痛そうやね?」と僕が言うと
「とにかく一回行って来い!」
とめったにモノを言わない父から命じられたので
取りあえず申し込んで当日行きました。
同チームテスト当日、何人いたかは覚えておりませんが
少なくとも僕より野球は上手く、運動能力も高かったことは覚えています。

何と入団テストに合格?!

テストの結果は合格でした。合格した理由はわかりませんが…
「部費要員か?」と…何せ硬式ボールを手にしたのは初めてだったので…
「入団申込書を書いてもってきて!明日の朝練から参加するように」
とチームのマネジャーの方に言われました。
そして、翌日の朝練よりチームの一員として参加しました。

「何こいつ?」「どこの者?」

ユニフォームがなかったので、学校の体操服で行きました。
(テストもそうでした)
同じ小学校の同級生が数人居たのみで、初めて見る顔が、ほとんどでした。
「何こいつ?」「どこの者?」
など好奇な目で見られていたことは確かです。
それでも1日も休まず朝練に参加し、試合にも同行しました。
当然試合など出られる機会はなく、道具運びや球拾いに終始しました。
「やっぱり俺はアカンやろな…」ということを心で呟いておりました。

「河原よ!今日からキャッチャーやれ!」

チームに入団して約1ヶ月経ったある日の朝練。
コーチに突然呼ばれて「河原よ!今日からキャッチャーやれ!」と!!!
「えっ!?」と心の中で言いましたが、とにかくやってみようと。
コーチの言われたのが「バットを振られても絶対に目をつぶるな!」
「絶対に球から逃げるな!」と。
やったことがなかったので、命じられたことをやるのみでした。
あれこれしながら2週間後に「明日先発や」と監督に言われました。

初めての試合当日…

初めての試合当日…
エラー連発、三振ばかりで散々であったことは覚えております。
当然監督とコーチからもこっぴどく叱られました。
しかしなぜかその後、
一度も外されることなくチームのレギュラーとして試合に出続けました。
そして初めての対戦したピッチャーは、
後に阪神タイガースで活躍した湯舟敏郎さんだったと、後日聞きました…

「地道に努力しなさい」

前述のコーチが
何故僕をキャッチャーに指名してくださったのかはわかりませんが、
「お前はキャッチャーに向いている。地道に努力しなさい」
と言われました。
記憶を辿ると、
誰からも言われることなく、素振り300回、ランニング10kmを
中学3年生まで続けました。
後で知りましたが、当のコーチは元NPBの選手だったと。
僕自身「初めて人に認められた」事象であります。
この体験は、現在活動する理念と志向の礎となっていることは確かです。
人間観察─ひとり一人の特徴をじっくり見ることの大切さですね。

徒競走や長距離走での好成績

小学6年生から中学3年生までの間、
ずっと学年最下位(男子は150名程度)だった
徒競走や長距離走で常に上位5位以内。
ほか運動は何をやってもダメだったものが、
それなりにできるようになりました。
勉強もボチボチ(嫌いでしたが…)になりました。
同級生はじめとした同じ学校の先輩や後輩、
教師らは「どうしようもない奴」のレッテルでの評価が、一変しました。
「これまでの事は何だったのか?」と感じたと同時に、
「まぁ他人はこんなもん」と、冷めた目で見ておりました。

身体を壊しごまかしながら…

中学生になった時、
ベースボールマガジン社出版の野球専門書や、
ウエイトトレーニング専門書を親に頼んで買ってもらいました。
何かの情報で、
「頭脳を使い且つ身体を鍛えることが近代野球だ」
と目に入りそのまま何も考えずやろうとしました。
バーベルとダンベルも買ってもらい、専門書の見様見真似でやりました。
野球の専門書を読みあさり知識をつけました。
身体は同世代と比べてごつくなりパワーもありました。
野球への造詣も深まりました。
しかし、所詮は中学生…無理があり
肩など身体を壊して、ごまかしながら試合に出続けておりました。
ただ、周りで野球やウエイトトレーニングの専門書を持っていた人間は、
僕しかいなかったのです。
決断するまではグズグズしておりましたが、
一回決めたらやり続けました。
そしてとことん研究することをやりました。
自分の強みと課題を追求しました。

僕はやはり変わりもん

僕はやはり、変わりもんであったことは確かです。
昭和後期の当時は、スポーツITなどなかった時代で、
何かを学ぶには先生もしくは熟練者、書籍しかありませんでした。
それらも確実ではなかった時代です。
当時からスポーツITがあったなら、
また違った人生を歩んだかもしれません…正解かどうかはわかりませんが、自分で「どうすれば上手くなるか?」を試行錯誤したことは確かです。
スポーツアナリストという立場の方々も当時は居ませんでした。
プロ野球のスコアラー、サッカーのスカウィングは存在しておりましたが、現在のようにITを駆使したものではなく、手仕事でした。

その当時自分が、現在の立場となることはゼロでした。
振り返ると、専門書を取り寄せ、徹底的に研究していたことは、
スカウトやアナリストとしての素養があったのかもしれないです。

非エリートとして

小学校6年から中学生時代は、リトルシニアで野球に打ち込んでいました。
他方当時では珍しいラグビースクールに通っていた友人や
野球の先輩でラグビー好きな方が数名いて、
時々パスやキックをして遊んでおりました。
「ラグビー難しそうやけど、何か楽しそうやな」
という感想を持っておりました。
しかしすぐにラグビーをすることはありませんでした。

高校時の僕

高校時の僕は、たいしたことがない時代であったので…
単にプラプラして怠惰な生活でした。
中3時に野球で誘われた高校もありましたが、そこには進みませんでした。
「もしその高校に進んでいたら!」という後悔は全然ありません。
他方、自宅近所の公立高校が当時全国レベルの強豪がありました。
両親は「そこに進学してラグビーしたら?」と進められました。
これは人生で唯一後悔した事象でした…なぜなら後で分かったことですが、近所の強豪公立高校のメンバーのほとんどが、
高校入学からラグビーをスタートしたと…
体力とガッツだけは自信があったので…
高校選びは間違ったなと…理由は自分でもわかりませんが…
結果的に高校時代は人生で一番暗黒な時となりました。

大学に進んでもええよ

高校を出たら就職しようとしていましたが、
「大学に進んでもええよ」と両親から進言され、
クラス40名で最下位でしたが、アホなりに勉強しました。
担任から提示された大学にはまったく興味を示さず、
いわゆる名門大学ばかり受験しました。
すべて不合格でした。

ホワイト・シャークの衝撃

受験勉強中にTVで偶々見た『5カ国対抗ラグビー』
スコットランド代表のジョン・ジェフリーのプレイに釘付けとなりました。
ホワイト・シャークの異名を取るアスリートを見て、衝撃を受けました。
同時に「これや!」となり、一浪後何とか大学に合格しました。
ほとんど素人で、一浪というグダグダの状態で、
体育会ラグビー部に入りました。
結果は、試合に出たり出なかったりの4年間でした。
監督や先輩は厳しいかったものの、素人同然の僕を受け入れてくれて、
みっちり基礎技術から徹底的に教えてくださりました。
僕は覚えが悪かったので、あまり上達しませんでした。
それでも一気にラグビーが好きになり、
ずっと関わりたいと。
今ある僕の人格形成に大きく影響したことは明らかです。
ただし大学時でもトレーニングが嫌いで
またスポーツアナリストやコーチングやパフォーマンス分析など、
全く興味なく、これらの言葉すら出てきませんでした。
一方相変わらず専門書籍は買って読みあさっておりました。
『シンク・ラグビー』『トータル・ラグビー』など
Jim Greenwood(ジム・グリーンウッド)さんが著した訳書や
大西鐵之祐さんの著書ですね。

生涯ラグビーの原点

就職は普通に一般入社いたしました。
入社した会社が、ラグビー部強化に取り組んでいました。
「やりたいな」という気持ちはありました。
しかし、メンバーを見るとオールブラックスを筆頭にNZUや豪州代表候補、Japanとその候補、関東代表などTV越しで見ていた選手ばかりでした。
「これはアカンやろ…」と自分から「入部します」とはできませんでした。
内定後一度だけ人事部から
「河原君、ラグビーやっていたのだね?」と自宅に連絡がありました。

ラグビーが好きならOKだ!

入社前の1月に当時の監督であった
石塚武生さん(1952年5月18日 – 2009年8月6日:久我山→早大→リコー→リッチモンド→伊勢丹監督→早大監督→JRFU→常総学院監督 JPNのCAP28)から自宅に連絡。
「河原君一緒にラグビーやりましょう」と…
「いやー僕なんぞ話になりません…
1年留年してまったくやっていませんから」と返答したら、
「そんなの関係ないよ!ラグビーが好きならOKだ。入部よろしく!」と。
本当に嬉しく舞い上がりました。
他方現実を見ると「絶対厳しい」と。
大学ラグビー部の恩師に相談したところ
「やれ!当たり前や!やれよ!また新しい友達ができるから!やれよ!」と背中を押され、無謀にも社会人ラグビーの世界に進むこととなりました。
ここでラグビーを続けたことで、
今の僕のラグビーとの関わりが続いていると断言できます。
もし断っていたら、スカウトやアナリストになっていることはないです。
もちろんラグビーとの縁も切れていたと…
13年前に旅立たれた石塚さんには、感謝の言葉しか見つかりません。
大学の卒業式翌日に「千葉で合宿するから参加して!」と上京。
社会人ラグビー生活が始まりました。

戦力外通告

残念ながら2シーズンで戦力外通告を受け、
社会人ラグビー選手としては短命に終わりました。
一方で世界レベルの選手達との縁が深まったことは、
現在も僕の無形の財産です。
当時の経験のおかげで、
福岡に移ってからラグビー界でリ・スタート出来ました。
後にトップリーグ(現リーグワン)のスカウト・編成、
大学のスカウティング、社会人クラブコーチ、
高校コーチ、アナリストなど経験できたのです。
そのきっかけとなったのが、現在当社のアドバイザーのKeith Daviesさんでした。

Keith Daviesさんとコーチング

Keithさんは、当時の所属チームにプロラグビーコーチとして着任しました。
試合&練習では常にハードワークを追求し、
一瞬でも歩くと猛烈な厳しい言葉を浴びせられました。
一方で必ず活動前後には
「今日もありがとう!次も今日以上のパフォーマンスをやろう。
君らは絶対にできる」と熱く語ってくださりました。
そしてきめ細かなコーチングとスキルの伝授。
僕のような三文選手に対しても分け隔てなく、
たくさんのことを教えてくださりました。
質問に対しても同様で、ひとつずつ丁寧なレクチャーをしてくれました。
またフィールドだけでなく、座学も頻繁に開催されました。
Keithさんは座学で、
戦術・戦法やルールについてQ&A方式はじめグループミーティングなどを
有効に用いて、レクチャーされました。
この経験は僕にとってターニングポイントでした。
約30年前はIT機器などなく、VTRデッキと大型TVモニターを駆使する。
ホワイトボードに図と言語で表現するなど、
振り返るとKeithさんの戦術&パフォーマンス分析により
「アナリストとは何かの」原点を経験できました。
ハードワークと緻密なミーティングとコミュニケーションによって、
前シーズンリーグ最下位、リーグ入替戦1点差薄氷勝利で残留から
全国社会人大会初出場に進化しました。
アナライジング×ハードワークすることで、無限の可能性を引き出し、
また新たに可能性を創り出せる体験ができました。
鮮明な記憶として焼き付いております。

非エリート選手がコーチ、スカウトに

社会人ラグビー選手としてクビになり、
しばらく社業に専念した後、30歳時に福岡へ転職・転居しました。
そこで新たなラグビー仲間との出会いがあり、
強豪クラブに入団して、再び選手として活動しました。
同時にコーチの勉強も始めて、3年後に
日本ラグビーフットボール協会のコーチライセンス(A級)を
取得することができました。
35歳時にクビのケガによって「タックルが怖くなり」
選手としてのキャリアを終えました。
すぐに同クラブのコーチに就任しました。
他方でその間、転職も繰り返してました。
当時の在籍したクラブは、
九州の社会人リーグBに属しておりました
(サニックスやコカコーラ、九州電力のひとつ下のカテゴリーのリーグ)
Aリーグ昇格を目標に掲げて猛烈なハードワークを課しましたが、
成就できませんでした。
まだ経験浅く若いコーチであったので、勢いだけでやっておりました。
そのような中、Keithさんから学んだ方法で映像を何度も見返して
プレイを数値化し、
トレーニングや戦術に落とし込む─選手へのプレゼンも数値と定量を
言語化して実践しました。
アナリストを意識していたことはありませんが、
実績の乏しい僕がコーチとしてできることは、
丁寧にチームと選手を分析した上でどのように実戦へ活かすかでした。
この頃から大変高価でしたが、
戦術&パフォーマンス分析・解析のソフトウェアが出現しておりました。
僕は高くて手も出ませんでした…
その後『ジャパンラグビートップリーグ』のチームでの
スカウト・編成担当、大学のスカウティング担当、
県内高校ラグビーアナリストの役目を仰せつかりました。
コーチとして独自の方法で試行錯誤して、挑戦したことが活かされながら、都度研究しながら、現在のラグビースカウトとして挑戦を続けております。

選手からマネジメント側─キャリアとマネジメント力の関係─

自身が選手からマネジメント側に変わってからは、
プレイを数値化=定量化する、客観視する、感度の高い情報を
収集するスタイルを取りました。
なぜなら選手としての実績がない非エリート─逆張りすると
一流でなかったことが幸いして、
自然にアナリストとしての手法を、取り入れていたとも言えます。
スポーツ界において選手としての高いキャリアは、
コーチなど指導する場合は大きな武器となります。
高いスキルおよび経験値は何よりも説得力が強固です。
2軍で終わった選手と日本代表経験選手がコーチするのでは、
どちらが選手への説得力が高いのか?もう言わずともわかることです。
では非エリート・2軍でキャリアを終えた選手が
コーチなどマネジメント的な立場になっても、だめなのか?
違いますね…その類のキャリアで名リーダーとなった方々は、
国内スポーツ界だけでも多数存在します。
中には競技歴なしで監督になった事例もあります。

選手・指導者は長くラグビー界で活動して欲しい

以上長々と自身のキャリアについて綴りました。
選手からマネジメント側になって約20年…苦楽の連続です。
スカウト・編成の仕事は、山あり谷ありです。
常にチーム強化の中枢であるという姿勢で、これまでやってきました。
その意志は今もこれからも不動です。
その根底に流れるのは、
「選手・指導者は長くラグビー界で活動して欲しい」という一心です。
つまりラグビー界に何らかでカタチで生涯関わって貰いたいのです。
自身のような非エリート人間でも、ラグビー界にて活動中です。
各カテゴリーにおいての指導者やマネジメント関係者および
選手の方々とのご縁が広がり、ご依頼の支援や情報交換を行っております。
国内外ともラグビー界は日進月歩で、常に鍛錬を続けていくことです。
学びを続けていくことです。
そして現場に足を運んで、直にコミュニケーションを作り上げることです。
オンラインでのコミュニケーションを有効活用しながらも
やはり直で話して、見ることが我々スカウトの原点です。
これまでのスカウト経験で、人間そのものについて冷静に見てきました。
どんな人が一流や名人になったか?
どんな人がドロップアウト、戦力外となったのか?
どんな人が長くラグビー界で活動しているのか?(プロ・アマ問わず)
どんな人がラグビー界を卒業して、一般社会で活躍しているのか?
是非ともたくさんのラグビー選手や指導者と話してみたい一心です。
自身のスカウト活動が、皆さんのキャリア形成
そして人生そのものの一助になりましたら、本懐です!!!

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ラグビースカウト河原清明の独り言
是非ともお力添えいただけましたら幸甚です!

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