学而1-4 で あそぶ
曾子曰く、吾れ日に三たび吾が身を省みる。
人の為に謀りて 忠ならざるか。
朋友と交わりて 信ならざるか。
習わざるを 伝うるか。
「自分がいちばん 自分をごまかすんよ。
そやからせめて、日に3回くらいは自問自答しようや。
ひとの為って言いつつ ほんの少しでも自分の利害が影響してなかった?
友人とおしゃべりするなかで 見栄やいい加減な話せんかった?
自分もろくに実践してへんことを えらそうに諭してへんかった?」
日に3回、自問自答する。
その時点でかなり自分を鍛えることに誠実で、すごいことだと思うよね。
「大学」に修身・斉家・治国・平天下 とありますもんね。
「大学」は曾子によって編集されたとも噂されるので、さすがに「修身」の実践に余念がない。
さて、この自問自答は、学而1-3にあった「巧言令色」と対局にありますね。
周囲に何かを求めるのではなく、自分の在り方に意識を向けている点。
自分の中にふと顔を覗かせる、スケベ心に気づいている点。
「あんたのためやで!」って言いながら、心の奥底をよーく覗いてみると
ほんとはただ相手が自分の思いどおりにしてくれてスッキリしたいだけ、とか。そこに私利私欲は、ほんまに無かったか?
ツレと遊んでてて、ちょいズルっことかイジワルとかせんかったか?いや、多少はあるんじゃないの?つい見栄はるとか、自分を正当化するとかも含めて。
そして、自分自身が実践もできてないことを人に偉そうに語ってませんか?
「習わざる」を は、「習わざる」がミソで、学而1-1にあったように、「学ぶ」と「習う」は違うんです。
「知った」=学ぶ 「習得した」=習う 。。
いや、まぁ完璧に実践できてなかったら語ったらあかんのか?っていうと、ちょいと厳しすぎませんか。。。と思うけど。
いずれにせよ、実際は「まぁあるよねー」ってことが常態なので、
あえて自問自答しましょう、ということにしておきましょう。
完全に「忠」完全に「信」完全に「習」であることが大事なんじゃなくて、
自分の言動に無意識に差し挟まれる自分本位なスケベ心を、
自分で掘り起こして直視して、自分でちょっと恥ずかしい思いをすることが大事なんじゃないかなーと。
人間、恥じらいがなくなると、不遜になりがちですもんね。