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学而1-1 であそぶ

『子曰く、学んで時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや。
 朋あり、遠方より来る、また楽しからずや。
 人知らずして慍(いか)らず、また君子ならずや』

「ふとした瞬間に 
 驚くほど当意即妙な立ち居振る舞いができて 大満足。
 めったに会わん 語るに足るツレが訪れて
 時間忘れて 盛り上がる。
 
 多くの人に認められようとして 小さくなるな。
 我が道を究めるのは あくまで我が喜びのためなんよ。」 

学ぶ と 習う。
知識として、知る・理解する・知識を使うイメージを持つ。
ここで言う「学ぶ」はきっとこんな感じか。
それに対して、「習う」は身体を使う感じ。習字とか練習とか。
やってみる、やってみる、やってみて、身に着いたことを知る。
使ってナンボ。
ただ知ってるだけじゃない、やれる!やれた!というのは、
そら「よっしゃ!」やんね。自信つくもんね。自分の「モノになった」感覚湧くもんね。

でも、これって学びに対してとても誠実な姿勢。自分の生き方に対して誠実な姿勢を表現してるよね。
世の中には「知ってる」イバリが横行してるもん。
「知ってる」ナガシも横行してるやんね。(あ、それ知ってます、だけで流すやつね。いやいや、知ってるかしらんけど、じゃあやってんの?新しい知識を拝みたがる前に、知ってる当たり前をちゃんとやって身につけろや!って。。)

さて、そんな自他に、そして学びに誠実な人って意外に少ないから、
同じ感覚で「そやんね!」って語れる相手がいたら、そら嬉しい。
朋 は単なる仲良しではなくて、同じ感覚で語るに足る相手ってこと。めったにいないから、ご無沙汰で会ったらガッツリ盛り上がるわなね。
長らく会ってないのに、毎日会ってたかのごとくの感覚がスッと湧く。楽しいよね。

で、「人知らずして怒らず」なんよね。君子は。
他人から認められなくても、いちいち怒らない。
だって、他人のために何かを追求してるわけじゃないもんね。
だって、誠実に何かを追求し続けている人を認められないというのは、その人の視座や見識の低さを表してるだけやもんね。

でも、どれもこれも難しいんよね。この世で生きてる中で、孔子がいうように在り続けるのは。
知らなかったら恥ずかしいって、なんか思ってしまって知ることに汲々としたり。とにかく本を読み倒したり、すごそうな人のセミナーに行きまくってたり。
濃いー「朋」1人に満足するのでなく、軽くストレスなく適当なときに適当に付き合える関係作りに汲々としたり。

貨幣ー価値ー他人からの評価が繋がった社会においては、一人誠実に恬淡と生きることは、まぁなかなかに難しいことやん。
でも、もしそこが自分なりに割り切れてくれば、きっと多くの悩ましさから解放されるとも思うんよね。

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