被害者ドラマを、やめた
一般社団法人アクセスリーディング協会公式ブログに
先日2022年10月9日掲載した記事を
個人のnoteに転載しています
ちょうど前回の満月の頃から
今日の日食新月にかけて
そして次の月食満月へ
続く変化の流れを綴ろうと思います
真夏のような日差しと暑さにくらくらし
お次は晩秋のような冷え込みにきゅーっとし
香らせ時をはかりかねているかのようなウチの金木犀さん
あの、、、10月ですよね?ですよね??
と
困惑のお声が聴こえそうです
こんにちは、3期生あこです。ええたぶん10月です、たぶん。
以前アクセスリーディングの仲間と
たとえば『1%の直感』のように
『ふっ』と
湧いてくるような降りてくるような
『気づき』という表現がいちばん馴染みがある
そういった瞬間は、どんなときに起きる?
という分かち合いをしたことがありました
洗濯物を干しているときだったり
台所で洗い物をしているとき
あてのないお散歩を楽しんでいるとき
ぱっと目に飛び込んできた言葉がきっかけだったり
先日あった、わたしの『ふっ』から
頭の中で展開していった流れがありました
頭の中ではほんの1分くらいの回想でしたが
書き起こしてみると
こんな感じのことが起きていました
↓↓↓
わたしは台所で洗い物をしていて
思い出すとは無しに
とある心理学の講演音声で聴いたエピソードが頭に浮かんでいました
(以下、クライアントさんの許可あって公開されている音源のうち、
そのエピソード部分だけを抜粋して書いています)
なぜこのエピソードが思い浮かんだのかはわかりませんが
瞬時に
『隠しているのに聴いてもらいたがっている「わたし」』
がいることに気がつきました
わたしの罪悪感のもとになっている
ひた隠しの罪の意識や実際の罪の数々を、です
こんなにも酷いことしてるわたし
先のエピソードのクライアントさんの傷のように
カウンセラーさんの目の前に
喉の奥から吐き出して全部さらけ出して
「聴いてもらいたかったんですね、わたし、この痛みを。」
そう呟く映像が展開していきました(頭の中でね。)
ひとを傷つけたこと、裏切ったこと、欺いたこと
恥ずかしいと思っていたセクシャルなこと
自分の闇、毒
だから、こんな最悪な人間であるわたしが愛されるはずがない
という信念のものに引き起こされる現実の数々
(間違った信念で思い込み、なのだけれどね。)
そして
どんな闇も聴いてくれている目の前のカウンセラーさんの姿は
「わたし」になり
目の前のお相手の
どんな思いも聴く「わたし」がいました
自分は毒だと泣くひとが目の前にいたら
聴く「わたし」は
つらかったですね、って言う?
大変でしたね、って?
がんばりましたね、って?
それでもこれまでこうして生きてこられたんでしょう?
その「わたし」は、こう言った
「よく、生きてきてくれましたね」
思い出す
重なる
16年前、当時お世話になっていたカウンセラーさんに言われた
「あなたよく、生きてこれたわね、、、」
子育てと生きづらさに悩み、辿り着いたカウンセラーさんに
成育歴やどんな家庭だったかを訊ねられ
話していくうちに返ってきた言葉がこれでした
そんな大そうな、別にフツーです、と答えながら
カウンセラーさんが涙流しながらこう言うくらいに実はそうなの?
死にたいくらい辛い人生だった、って
言っていいんだ?
その時からわたしは、
『被害者』として確固たる地位に立ちました
カウンセラーさんという『権威者』に
「よく生きてこれた」と言わしめたことで
最上級のお墨付きを得たとばかりに
(思い込み、なんですけどね)
「ねえわたし、こんなに酷い目に遭ってきたんだよ!!!
だから、もっとやさしくしてよ!!!!!」
回想のなか、そんな心の叫びを感じた時
あっ
と
顔を上げました
『被害者』のドラマをやってきたことには気づいていたけれど
本当にそれが腑に落ち自分のものになった瞬間でした
「よく、生きてこれたわね」
これを、ずっと、ずっと、
わたしが使ってきたわ、都合よく。
そして瞬間的に
かつてなかった『ふっ』とが差し込まれる
待って、
でも
あの時カウンセラーさん
本当はそんな意味で言ったんじゃなく
今さっき妄想した聴く「わたし」のように
「よく、生きてきてくれましたね」
本当は、こう言いたかったんじゃ?
いやわたしの脳が都合よく改ざんしたかも、
もしかして実際、こう言われたんじゃ…?
そんな
今までとは全く違う
ものの見方(パラダイム)が差し込まれた瞬間
あ
もう
これ
無くていい…
乾いたかさぶたが、自然にぽろっと落ちるのを
はっきり感じました
「からだとこころは繋がっている」
このことは今ではとてもよく知られています
一昨日の投稿でゆきんこちゃんが
からだからのメッセージのことをお話してくれています
『丁寧に感じられていますか?』こんにちは AR4期 ゆきんここと林友紀です 最近は秋空が気持ちいい季節になりましたね♪ 私は風を感じることが大好きで 少しヒヤッとしつつも優しい秋の風を味わ…
また、まのめっちには
「違和感ちゃん」を発見するブームがキテルようです
からだには自然治癒力が備わっています
皮膚が傷つけば、出血し、膿を出し、凝固し、
新しい皮膚が再生するまでかさぶたとなって覆い保護してくれる
こころの回復力はレジリエンシーと言われ
ストレス(外圧による歪み)に対し、
その歪みを跳ね返す力と表現されます
わたしには今回こころの傷が
長い長い時間をかけて、かさぶたなって剥がれ落ちた、と
イメージと体感の区別がないくらいに感じたことで
不要のものとなった感覚がはっきりとつかめました
いつか、こうして傷(と思っている痛み)は癒えて
新しい皮膚が生まれてくる
ひとは、変わらないでいながら変わる
わたしという個体も魂も『わたし』のままですが
あった痛みは癒え、新しい『わたし』に覆われているのです
かさぶたは、無理にははがさない
自分の持つ自然治癒力に、レジリエンシーに
任せる、ゆだねる、信じる
それには必要な時間がかかったりもするのです、
とても歯がゆいけれど
アクセスリーディングをはじめとして
カウンセリングやヒーリングなどは
その人の治癒力を促したり、流れを生むもの
それを施すことで「治る」のではなく
「治癒力」は、痛みを持つ本人にあります
ある
ある
絶対にある
だってあったもん
16年かかったけど
実際に辛かった、きつかった、悲しかった、寂しかった
わたしが『特別』そうだったかどうかは本質ではなく、
人間なら誰しもが体験する感情で
わたしにもそういうことがあったのです
ただ、辛かったと思うこと、感じることを封印してきた
そうしないと生きていけないから、という
生存本能がそのようにネガティブな感情を抑圧しました
その抑圧のフタが、
16年前、カウンセラーさんの言葉で開きました
抑圧し、仕舞い込んできた感情
何らかの訳があって、『あの時』に『感じる』ことができなかった
遮られたのかもしれない、否定されたのかもしれない、
辛いと感じることが
抑え込み無かったことにすることよりも辛かったのかもしれない
あの時の『わたし』を誰よりも一番知ってるのは『わたし』
できることなら体験した『あの時』に
そのまま昇華してしまえたらよかった
心の奥底に残っていても
向き合う『準備』ができると
出てきます
フタを開ける出来事が起こります
けれど
どうやら、16年前の『わたし』には
そこでそのまま感じて昇華するには
まだ十分な準備ができていなかったようです
いえ、
そこから
準備に向けての段階に入ったようです
まずは
痛みを傷にして
『被害者』という役割を握りしめた『わたし』
当時は全くの無意識、無自覚です
今なら、理解できます
『わたし』が自ら『被害者として在ること』を選択し、決めたと
そして、『わたし』にはそれが必要だったことも、痛いほどに
少し前までは、そんな過去の自分を責め、バツをつけました
今は、痛いほどにいとおしく、ただただねぎらいたいです
「そうは見えないだろうけど、
それぐらいすごいんだよわたし、認めて!!」
そう叫びたかっただけなんだと、理解できたから
そしてその叫びを届けたかったのは
聴いてほしかったのは
あの頃の両親、よりも
ほんとうのほんとうは、『わたし自身』になんだと
わかったから
「聴いてもらいたかったんですね、わたし、この毒を。」
「ねえわたし、こんなに酷い目に遭ってきたんだよ!!!
だから、もっとやさしくしてよ!!!!!」
「そうは見えないだろうけど、
それぐらいすごいんだよわたし、認めて!!」
「よく、生きてきてくれましたね」
これらの声を『わたし』が、叫ぶこと
そして『わたし』が、聴くこと
まとめると、たったこれだけのことに
数十年の被害者ドラマという壮大な仕掛けと舞台が必要でした
そして、傷に仕立て上げ、かさぶたにし、
自然に剥がれ落ちるという台本を選んで
今、手放しました
この先は、もういらないよ
おかげで今日まで生きてこれました
これからは、わたしを生きます
今まで、ほんとうにありがとう
ありがとう
長いお話に最後までお付き合いくださりありがとうございました