01.Down by the Salley Gardens 一流の歌手を目指すその女性の名は、ベラドンナといった。ベラというニックネームを持つ彼女は、六月に二十二歳の誕生日を迎えたばかりである。一般的にいえば少女という範疇から脱して間もない若さであった。だが、音楽という道を志しながら未だ初舞台を踏むことができていないことを考えると、その輝きもいささか鈍らざるを得ない。殊に夏から秋にかけての日射が
02.Moon River 列車を降りると、そこはもう数年ぶりの故郷だった。駅舎やその出入り口から見える風景には特段の変化を認めることはできないが、胃の奥からこみ上げてくるものは懐かしさなどではなく、軽蔑とでもいうべき感情だった。久しぶりに踏みしめるプラットフォームの感触も、風がなく生ぬるい空気も、まるで変わっていない。 「ここは時間が止まっている」 心の中に留めておける感情を、ベラはあえて呟い
03.Happy Birthday to You ベラは数少ない快い思い出を噛みしめながら、ようやく母の墓前に辿り着いた。小さな墓地の中にある、小さなお墓。ベラは都会から持ってきた赤い化粧箱をトランクケースの中から取り出した。その化粧箱は母から譲られたものである。いつか大人になり、やがては母になるであろう娘に向けての、数少ない贈り物だ。ベラが身の回りの物を大切に扱うように育ったのは、その思い出を大
06.Heartbreak Hotel 本番までの時間はもうそれほど残されてはいなかった。その短い時間をベラは最大限に利用した。バンドのメンバーとのリハーサルを重ねていくうちに、歌唱と演奏とは着実に一体化していった。そうすると自然に彼らとの関係も深まってきた。これがもし彼らとの間の溝を埋めることができないままであったなら、プレッシャーに押し潰されていたであろうことは容易に想像できた。幸いなことに
07.Raindrops Keep Fallin' on My Head 「実は数日前からレイが喉の違和感を訴えていたんだ。念のために病院で検査をしたんだが、その結果が今朝になって届いた。……残念ながら、今日の舞台には立てない」 急報を伝えたジェームズと楽屋に入ったベラは、ビルの口からそう聞かされたとき、どこか他人事のような気分でいた。レイの状態はもちろん心配だし、今夜の舞台についてもどうなるの
09.Summertime, Can't Take My Eyes Off You, Heartbreak Hotel, Over the Rainbow... 少し前までひっそりとしていたラウンジは、公演が始まる頃には人の気配で満ち満ちていた。カクテルを片手に談笑する男女、四人で卓に向かい合って何かひそひそ話をしている男性たち、舞台に近い席でショウが始まるのを待ちわびている幾人か。やがて時間が
10."Cupid shoots to kill" ベラとサッドネスのショウは、そこに至るまでの経緯を考えれば十分な成功を収めることができた。歌唱も演奏も選曲も、そのどれもが完璧とは言い難かったし、観客の反応も必ずしも上々とはいえなかった。しかし、最初から全てが上手くいくことなどあり得ない。ビルの昔話を聞いたベラのみならず、これまでにいくつかの舞台に立ってきたサッドネスの面々もそのことを過不足なく