Cupid shoots to kill - 07

07.Raindrops Keep Fallin' on My Head

「実は数日前からレイが喉の違和感を訴えていたんだ。念のために病院で検査をしたんだが、その結果が今朝になって届いた。……残念ながら、今日の舞台には立てない」
 急報を伝えたジェームズと楽屋に入ったベラは、ビルの口からそう聞かされたとき、どこか他人事のような気分でいた。レイの状態はもちろん心配だし、今夜の舞台についてもどうなるのだろうと不安にはなった。が、それ以上のことを考える余裕はなかった。
「そこで今日の前座は中止として、君を主役に抜擢したいと思っている」
「えっ……?」
 ビルの表情は真剣そのものだった。冗談を言っている様子ではもちろんない。
「私が、主役に……?」
「そうだ。レイの代わりを務められるのは、君しかいない」
 皮肉な状況だった。自分が主役と信じてこのホテルにやって来たベラは、一度は期待を裏切られながら、今になってその大役を任されようとしている。ベラが混乱するのも無理はなかった。
「でも、私……」
「ベラ、これはチャンスだ」
 ベラはレイのことを慮っていたし、主役を務められるかという不安が生じていた。そこへかけられたジェームズの言葉は軽率で、彼の望まない方向へと作用した。
「考える時間が、少しでもあると嬉しいのだけれど」
「残念ながら僅かしかない。はっきりと言ってしまえば、君が頷かないのなら、今夜の公演は中止せざるを得ないだろう」
 ビルが現実的に答えたその言葉も、ベラの心理に良い影響をもたらさなかった。見えざる重圧がベラの肩に手をかけている。
「せめて一時間だけでも私にください。それから、答えを出すわ」
 ベラが深刻な顔で楽屋から出て行くのを、二人は追いかけることはできなかった。とはいえ、時間がないのもまた事実だった。
 突然の出来事に、誰もが混乱している。

 約束の一時間が経った頃になって、ビルはベラの部屋へと出向いた。部屋の中からはラジオの音楽が聞こえてくる。
「もし良ければ、少し話しておきたいことがある。入っても構わないか?」
 ビルの見たところ、ドアを開けて中へ招いたときのベラの表情には、ある感情が鮮やかに浮かんでいた。それでも人の心というのはどこへ流れていくか分からないものだから、ソファに座ったビルはある話をベラに伝えておくべきだと思った。
「私には、双子の兄弟がいた。ジョンという名前だ。ジョンと私はよく競争し合いながら育ったが、同時にお互いを尊敬し合ってもいた。勉強もスポーツも趣味も、身の回りの全てが競争の対象だった。双子の兄弟といっても容姿はあまり似ていなかったし、得意なことと苦手なことは全く異なっていた。そんな兄弟だった」
 ベラは口をつぐんだまま、ビルが始めた昔話に聞き入っている。
「そんな私たちが初めて見つけた共通の得意分野、それが音楽だった。私がドラム、彼がベースといった具合に、魅了された楽器は違ったがね。音楽という共通の得意分野が見つかり、バンドを組んで活動するようになってからというもの、私たちは競争することがなくなっていった。演奏者として技倆を磨くことはもちろん大切なことだが、がむしゃらに自分の担当する楽器のことばかりを考えていたのでは、一つの共同体としてのバンドは立ち行かなくなる。ある意味で己を殺すこと、そして与えられた場でどこまで最善を尽くせるか、そうしたことを考えながら演奏するようになっていったんだ」
 ビルの話が進むにつれて、ベラには彼がどうしてこのような話を始めたのか、段々と分からなくなっていった。
「だが、音楽というものはそう単純ではない、君も分かっているようにね。音楽は生ものだからたった一つの正解というものはなくて、その時々で最適解が違ってくる。己を殺すことは時に正しく、また時に誤っている。そのことに気付いたのは、ジョンがヴォーカルを務めるようになってからのことだ。彼を引き立てようとして控えめな演奏をしたとき、他のメンバーとの調和が取れなくなって失敗したことがある。そうかと思えば、派手にやり過ぎて顰蹙を買ったりもした。自分自身で文句をつけるところのないような演奏は、これまでに数えるくらいしかない。そしてその成功は、偶然の積み重ねによって成り立っていた。それが正直なところだ」
 そこまで言うとビルは黙り込んで、しばらくしてから再び語り始めた。
「ジョンもまた私と同じようなことを考えていたが、ヴォーカルというものはまた一つ違った役割を担わされる。少なくとも私たちのやっていうような音楽ではそうだ。バンドの演奏を背負って、その気持ちを歌というものに変換して観客に届けられるのはヴォーカルだけだ。こんな言い方をすると君には重圧になってしまうかもしれないな。しかし、君の歌声は大いに注目に値する。……これは今までに様々な歌手を見てきた私なりの正直な感想だ」
 ベラはその言葉に感動するのを忘れて、先ほどから抱いていたある疑問を口にした。
「ところで、ジョンは今、どこで何をしているの」
「亡くなったよ。あれは交通事故だった」
 ビルのバンド、ツインズがメインヴォーカルを欠くのにはそうした理由があったのだ。ベラは申し訳なさそうな顔をしたが、ビルは気にするような素振りを見せない。彼にとってはここまでの話は前置きに過ぎず、ある厄介な問題をここで解決しておかなければならなかったから。
「ベラ、これは君に決定権があることなんだが……、どちらのバンドと舞台に立ちたいんだ?」
 最早、ベラが舞台に立つかどうかということは問題ではなかった。ベラは自分自身のことにばかり気が向いていて、実のところその問題についてはまるで考えが及んでいなかった。
 今夜の公演までの時間を無為に過ごすことなくリハーサルを重ねれば、あるいはツインズとともに成功を掴み取ることができるかもしれない。ただ、今から十分なリハーサルを行うことは望み難いから、リスクを伴う選択となる。一方、元から一緒に舞台に立つ予定だったニックたちとなら、ベラも安心して演奏に身を委ねることができる。ただし、ツインズと比べると演奏の安定感という意味では劣るだろう。
 結局のところ、どちらを選択するにしてもリスクはある。だから、後はベラの胸三寸ということになる。
「決めたわ」
 長くはない沈黙の後、ベラはある決断を下したのだった。

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