林檎おいしや うちなるコール
五月になりました。
コロナのことなどすっかり忘れてしまいそうな風薫る五月。ツツジや藤の花が満開でこの世の天国がそちこちに現出しています。
今週はiTunesで椎名林檎ばかりを聴いています。
エモーショナルなメロディと彼女の独特の歌声に無限ループで身を浸しているとからだの内側からかそけき声が立ち昇ってきました。
あなたがほしいあなたがほしいあなたがほしいあなたがほしいあなたがほしいあなたがほしい…!
声は終いには金切り声のように高まったかと思うと痛々しくかすれ頭上へと抜けていきました。
彼女の歌声のせいなのか、そもそもわたしのなかにあった声なのか、そのどちらもなのか判然とはしませんが、まじないに掛かったかのように一瞬頭がぼうっとしたことでした。椎名林檎おそるべし。さすが「歌舞伎町の女王」を唄うだけのことはあります。
さて、わたしは愛や性について絶賛探究の途にある者ですのでここでふと考えたのでした。
「あなたがほしい」は分かった。
では、その「あなた」とは誰?
単純に考えたら好きな人のことになるかと思いますし、そしてそれでも一向に構わない(わたしは)と思うのですがどうも引っかかります。
折しも女性性と男性性について考えていたからなのかもしれません。
わたし達は自分の生まれついた性が女であれ男であれ、男性性・女性性のどちらもを内に持ちつつ生きていると言われます。からだの存在表現としては男性だったり女性だったりとどちらかの形をとっているけれど、男らしく見える男性のなかにたおやかな女性性が宿っていたり、可愛らしい女性のなかに戦国武将のような雄々しさが潜んでいることはよくあることです。そして大概はその比はアンバランスの状態にある。
ひとが誰かを恋い求めるときは自分の内側で欠落している“もう片方”のスペースを恋するひとに埋めて満たしてもらい安心したいからだ、とも言います。
逆に言えば悟りを得たひとはその自分の内側の男性性・女性性のバランスを御することが出来た、もしくはそれが融合し欠落を完全に昇華させることが出来たのでもはや他者を乞う必要がないのですよね。自己充足、というやつです。安心、安全、平和の極地。……そして多分につまらなさそう。
かつてアンバランスの極みな関係性のなかに苦しんでいたとき、わたしの導引の師は苦々しい顔でこう言いました。
「まずあなたはあなた自身のなかで満ち足りていないと。誰かに欠落を埋めてもらいたいという状態でいる限り対等な愛をもってあなたを思いやるひとになど出会えませんよ」
はぁ、ごもっとも……と、うなだれたものですがその後もなかなか師が言わんとしていたことの真髄は掴みきれずにいました。いえ、もしかしたら今もまだ分かったとはいえないのかもしれません。
わたしひとりで満ち足りる、というのは蓮の花の上で微笑む仏性のようで素敵だとは思うのですが自分がそうなりたいとはまだ思えない。そうなる前にやっておかなくてはいけないことがあるような気がするのです。
存分に愛した、という、ひととして体験可能である筈の次元をわたしはまだ自分に経験させていないのだから。
これが人生わたしの人生
ああ たらふく味わいたい
誰かを愛したい
私の自由 この人生は夢だらけ
椎名林檎の「人生は夢だらけ」でこのフレーズを耳にしたときにああそうか、と腑に落ちました。
あなたがほしい
のあなたはわたしの欲望、生きる意味そのものなのです。
それが好きな「あなた」になることもあれば目を逸らしてはいけない私自身のうちなる「あなた」になることもあるでしょう。
ともあれ、わたしは自分が欲望する人間だ、ということを自身に誤魔化してはいけないようです。それを忘れて別のものにすり替えるなよ、という警告一歩手前のコールなのだと思いました。
わたしの内なる男性性と女性性は未だバランスを欠いており、わたしはそれを外側の男性に求めることでしょう。ひとりで経験出来ることなどたかが知れています。
奪われるもんか 私は自由
この人生は夢だらけ
夜風が心地良い5月の初日です。どうかあなたの夜も穏やかで甘やかに更けていきますよう。