橋のたもとで

黒ヤギさん。お久しぶりです。

お手紙途切れていたあいだ、お元気でしたか?すっかり季節は秋を越えて今、冬の入り口です。

今日わたしはこれまた久しぶりに上野公園まで散策しに出掛けました。ほかに何も予定を加えず、ただあそこの、上野のお山の中心点とも言うべき広場の真ん中に佇みに。

わたしが親に連れられて東京というところに来るようになって最初に覚えた場所。物心ついて少ししてようやく記憶を留めておけるようになったその頃の、それは印象としては動物園の物珍しさが勝っていたのですが。

そこから数十年、やがてひとりで東京を歩き回るようになってからもわたしのここでの基点としてあるのは公園の広い広い地面のちょうど真ん中のここなのでした。

ここに来る時は不思議といつも空が晴れ渡っています。今日も雲ひとつない嘘みたいに真っ青な空でした。ここで、国立博物館のほうに向かって立って空を見上げるのです。これはいつからか、わたしの中で大切な儀式となりました。東京のおへそに立って、何もない空をただ見上げる。

抜けてゆくような何もない空にわたし自身を映しているのかもしれません。

そう。

なぜこういうことをしているのかと言うと、そうすると自分の人生の時間が“これでいいのだ”と思えるからなのですが、子供の頃から自分を見下ろしてくれていた景色に身を置くと世界ごとわたしというものを受けとめてもらえる気持ちになるのでしょう。 

やがてわたしは自分を受けとめる存在は自ら創り出すべきことを覚えました。愛されるためには愛することを。

だからでしょう。公園の印象的な樹々とも交歓しあうことを身につけはじめました。人間相手だと、なかなかそこに至るまでが障害が多いものだから。でもわたしの中から発露する愛は受けとめる器を、反射器を求めます。そういうわけで、ただそこに佇む木にあふれ出てくるものを注ぐのです。木は太陽光を受けとめるのとなんら変わりない様子で平然と受け取ります。たいしたものです。すると、その木はそしてその場はわたしにとってかけがえのないものになります。恋人の木です。そんな恋人の木が実は東京のいろんな場所に立ってくれています。並木路だったりすると、そこはもう“恋人の道”です!

さて。でも樹々にいつまでもわたしのお守りをさせておくべきでもないのでしょう。

黒ヤギさん。

あなたはわたしのなかのもうひとりのわたしであることは薄々気付いていたことでしょう。白ヤギのわたしが女性性で、黒ヤギのあなたは男性性。

どうやら、本当に、わたし達のあいだに橋を掛けなくてはいけないようです。外に漏れ出てしまう愛の循環を、わたしとあなたのなかに収めて互いに感応して往還していかなくてはいけません。

そういうことに気づくきっかけとなった本を読みました。はじまりの書です。その本についてはここでは触れません。それはわたしの言葉で消費されるべき本ではないから。見つける人は必ず見つける本です。そして聞く耳をもつものならば必ずそこで要請されていることに気づけるはずです。

ひとつ言えるのはわたし達のうちなる男性性と女性性、ひいては自己と他者性とのあいだに流れていた深い川に橋を渡すための本です。

こちら側からとそちら側から。


いつかきっと橋がかかり、その真ん中で笑いながらあなたを抱きしめる日が来ますように。

いまはまだ、架橋工事中の橋のたもとで川向こうのあなたに手を振ります。

日が暮れだしました。

良い夜を。





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