センセイ
「萩元朋也といいます。」
わたしが先生に出逢ったのは、高校1年生の春だ。
少し足早に教室に入ってきた先生は早口に自己紹介をした。どちらかといえば高い、しかし落ち着いた声だった。先生を一目見たとき、私の中の何かが大きく震えた気がした。ああ、私はこの人に惹かれるのだろう、と無意識に思った。先生は黒板に大きな字で『萩元朋也』『B型』『大阪府』『餃子』『一人旅』と書いた。几帳面な字だった。『萩元』のもとは、『本』じゃなくて『元』と書くのだな、と瑣末なことを考えた。彼がこれらの単語をひとつずつ発音するイントネーションは、美しい標準語だった。
「大阪出身なのに関西弁は話さないんですか。」
どこからともなくだれかが聞いた。先生は声のしたほうを一瞥すると、表情ひとつ変えずに答える。
「普段は話すこともあります。ただ、授業のように人前で話すときは標準語を遣うようにしています。それが礼儀だと思います。」
魅力的だと思った。何がそう思わせたのかは分からない。ただ、魅力的な人だと思った。男のひととしてなのか、人としてなのか、そんなことは考えもしなかった。そんなことはどうでもよかった。私の眼は先生にくぎ付けになっていた。それが先生と私の出逢いだった。
ただ、出逢った、というよりはわたしが彼を見つけた、というほうがしっくりくるような気がした。
もっと先生を知りたいと思った。生まれて初めての感覚だった。
わたしのホームルームの窓から、先生の担当するクラスの教室はよく見える場所にあった。そこにはいつも、姿勢よく座っている先生が見えた。先生もまたどこか遠くを見ていた。先生の周りは、いつもそこだけ違う世界のように見えた。まさか誰かが、自分を見つめているなんて思ってもいないだろうな、と思うと、すこしだけ口元が緩んだ。
わたしのことなんて、先生はきっと知らない。
先生とは週に二度、英語の授業で顔を合わせるだけ。いや、顔を合わせるという表現は少しとんちんかんな気がした。先生は常に、淡々と授業をする人だった。今朝の新聞の一面を飾った芸能スキャンダルだとか、昨日の夕食はビーフシチューだったとか、この間の休暇は映画を観に行っただとか、そういう類の話はほとんどしなかった。ずっとむかしから決まっていた言葉を繰り返すかのように淡々と授業をした。誰のことにも関心がないみたいに。○○さん、大丈夫ですか。と、居眠りしている生徒を起こすときでさえ、予め用意されていた台詞のように聞こえた。
けれどわたしは、先生の授業が好きだった。黒板に字を書く後姿が好きだった。決まって左手の親指の付け根までをバックポケットに入れながら字を書く。小刻みに揺れるその後姿が好きだった。その白くて少し骨ばった指からさらさらと流れ出る几帳面な文字が好きだった。指についた真っ白なチョークを、丁寧に払い落とすしぐさが好きだった。先生の少し高い声も、標準語を流暢に話す口元も、私は大好きだった。毎週月曜日と木曜日が楽しみだった。いつも持ち歩いている深いピンク色の手帳には、週にふたつずつ、小さな丸がついていた。先生と授業で会えるのは、ホームルームの向かい側の教室だった。鍵は毎回、わたしが職員室まで取りに行った。そういう係があったわけではない。ただ、気が付くとわたしが担当になっていたのだ。緑色のストラップの鍵は職員室に保管された鍵のなかでひときわキラキラとして見えた。魔法の鍵かなにかみたいに。これを使えば、先生に、会える。先生は、何も知らない。わたしのことも、きっと、知らない。
ある授業後、先生が、 すうっとわたしのそばにきて、言った。
「教卓の上ではなくて、黒板横のフックに掛けてください。」
「鍵。」
こちらも見ずに。
「先生、鍵取りに行っているのが私だって。」
ご存知だったんですか。言いかけたところで先生が言った。
「いつも、ありがとうございます。橘さん。」
早口だけれど、決してぶっきらぼうではない、というような言い方で、先生は言った。先生の話しかたが、わたしはとてもすきだ。
「それでは。」
先生はくるりと私に背を向けてすたすたと歩いていく。後ろ姿はすぐに遠くなったけれど、わたしの幸せなきもちはいつまでも残った。わたしの名前、知ってたのね。当たり前のことに、可笑しいほど胸が熱くなった。
わたしは先生を愛しているのだ、と気づくのは難しいことではなかった。
わたしの毎日は、ゆっくりと、着実にすぎていった。相変わらず先生は、淡々と授業をして、わたしはそれをまっすぐに聴いた。
ときどき先生におはようございます、といい、ときどき英語の話をして、ときどきお天気の話をした。ひとり旅の話を聴くと先生は少し驚いて、よく覚えていましたね、と少しだけ笑った。先生はいつも穏やかで、あまり笑わない人だった。優しい、という感じはしないけれど、どこかあたたかい人だった。わたしは先生が好きだった、ただ、好きだった。
2年生になって、先生の担当してくれる授業はなくなってしまった。先生には相変わらず、毎日会いに行ったけれど、先生はいつも変わらなかった。けれど、私もずっと変わらなかった。ずっと先生が大好きだった。
卒業式の日。
まだ少し肌寒い風が吹く、2月の末。
どこにいても、一際輝いている先生。深い緑色の袴がとてもよく似合っていて、わたしは泣きたいような気持ちになった。何日もかけてかいた先生への手紙を、深い藍色の封筒に入れて渡した。ピンク色にしようと思ったのだけれど、なんだか先生には、こっちの色の方が似合うような気がして。
ずっと言えなかった「先生を愛していました」という言葉が、そこには書かれていた。きっと、ずっと前から先生は知っていたのだと思うけれど。先生は細い指で私から手紙を受け取ると、「ありがとうございます」といつものように微笑んだ。私にしか気がつけないくらい、そっと。
「先生」
「来世は私と結婚してくださいね。」
精一杯の笑顔でわたしは言った。もう、二度と会うことはないかもしれないと、私は知っていた。
「来世ですか、出逢えますかねえ。」
先生は言った。少しだけ寂しそうに、けれど柔らかく、先生は笑っているように見えた。
「出逢えなくても、私が探します。きっと見つけ出します。」
わざと大きな声で言った。冗談ともとれるように。何でもないことみたいに。
「そうですか、じゃあ、出逢えたら。」
今まで見た先生の笑顔の中で、一番素敵だ、と思った。ああ、この人が好きだった、私はずっと、この人が好きだった、と誇らしい気持ちになった。ありがとうございました、と深くお辞儀をして、わたしはくるりと先生に背を向けた、どういうわけか涙が溢れてきて、もう振り返れないと思った。
そのとき。
「橘さん。」
涙でぐちゃぐちゃの顔でゆっくり振り返ると、先生が笑っていた。さっきよりも、もっともっと、素敵な笑顔で。
「握手でも、しときますか」
先生の手はいつものように、白くて骨張っていて、細かった。けれど思っていたより、ずっとずっと、あたたかかった。
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