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『悪は存在しない』を観て来た

このnoteには映画のネタバレが含まれているように思いますので、
お気をつけてスクロールください。



最終上映で、夕方の時間帯。
いつもなら絶対行かない。
それなのに、今回は絶対に行こう、と逆に思っていた。
なんでだろう。

小さなスクリーン、お客は私を含めて二人。
静かにそのひとの噛むポップコーンの音を聞きながら、
予告を見た。
正直あまり心躍らず。
夏休み映画、という大枠のお金をかけて観に来て!!と叫ぶような映画は少し苦手で、きらいなわけではなく、私などが見に行かなくても、、、と思ってしまったりする、性格なだけなだけであって。つまりちょっと自分には残念な季節がくるなぁと。
(今年は文庫祭りにも参加できないし、、、本買えないから)


『悪は存在しない』
そのタイトルを聞いた瞬間、そうだろうね、と思った。
物差しが存在しない。
物差しの基準は自分がなんとかするしかなく、
すべてのものに共有できるものではない。
神さまの視点からみてしまえば、
腹を裂かれている惨劇も、出産の神秘も同じ、命の状態の変化でしかない。

冒頭の森林を見上げて歩いて行くカメラの視点。
流れる音楽に、
ああ、この映画を私は好きだろう、と確信が落ちてきた。
いつまでもこの映像と音楽を聞いていたい。
夢み心地にそう思っていると、
ぶつりと暗転、スタッフ名が打たれる。
そしてまた音楽と枝の流れが重なって心が凪ぐ、
を繰り返し、
これが少女の視点だったことを知る。

このお話は、
たぶん二つの面を重ねて、本当に周りの(一部の人以外)見えなかった部分を観客にも見えにくいように作ったのじゃないかと思う。
上にどーんと乗っかるお話は、
長野の山の中で悠々とした自然の流れに沿って生活をしている父親の巧と、娘の花。
彼は便利屋をしながら山の中のことを体感として生きているように見える。
穏やかな村に突如立ち上がる、コロナの補助金目当てのグランピング場の建設話。その説明会へやって来たふたりは、あまりに杜撰な計画に村人たちにこてんぱんにされて本社へと帰ってくる。
けれどその経験から、二人には乗り気ではなかったグランピング場の経営に、土地の人たちや山の環境と本気で向き合っていこうという心境の変化が生まれていく。
社長やグランピング場の経営コンサルタントへの再度計画をやり直すことを提言するも、お金や時間の問題で全ては押し流されてしまう。
そして再びの長野行きを命じられた二人は、
心を新たに巧の考えを仰ぎに行くのだったが、そこで見た彼の生き方に感銘を深くした二人は、しかし山の鋭利な部分も目にしていく。
そんな中、娘の花が行方不明となり、三人は深い森の中を花の名前を呼び歩く。そして花は____

と、いうお話が主な?
大きく主人公と娘の周りで動く物語。

だけど、私にはそっちよりもずっと気になってしまうことがあった。
それがもうひとつ物語が隠れている、と思ったきっかけ。

父親の巧さんは、
妻を亡くしている。
そして娘の花ちゃんは、
お母さんを亡くし、その上、父親の気迫の生きる気力の低下とも直面している。
何度も食べ物を彼の口に運ぼうとしたり、
どこにいても心配そうに見ている。
そして巧さんは、水が下から上には流れないように、
娘がいるという一点でここに堰き止められている状態のように見えた。
いや、自分でそれを強く意識してはいなかったかもしれないけれど、
彼を自暴自棄にしなかったのは娘の存在以外にないと思う。
それほど愛していたと思う。
だけど、
そんな大切な娘の迎えを彼はよく忘れる。
そしてその度に花ちゃんは森を越えて家をひとりで目指そうとする。
東京からやって来た大人二人がたじろぐ山道を、
一歩間違えば大けがに繋がるものがあり、
彼らの家のそばには怪我をして死んだ小鹿のほとんど骨となった遺骸があったりする。
怪我を負った野生動物が危険であることを、巧さんは東京の二人に説く場面がある。
そういう場所だと自覚して、そういう道を娘が歩いて帰ってくることを無意識化で願っている。
自然の中、致し方なくその命を頂かれたのであれば、もうそれは仕方がなかったのではないか。
そうすれば、自身もその身を窶すのに不安はない。
そうでなければ、あんなこと絶対にしないだろう。
憎いからではなく、自分ではどうしたって傷つけられないほど大切だから、
自然に委ねる。
そのように、彼の様子は見えた。
果たしてその心は悪なのか。

悪は存在しない。

そのタイトルが目の前を塞いでいた。

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