余情 21〈小説〉
街は粛々と秋を受け入れようと動いていた。ショッピングモールの中のマネキンたちが一斉に肌を隠し、その色味は目を刺すような物から、ふと目にとまるようなつよく深いものになっている。
前を歩く後輩の背中から、ふと目をはなして見つめた硝子越しの商品に、勘よく後輩は気付いた。ときどきその視野の広さに、頭のうしろに目が付いているのではないかと疑ってしまうほどだ。
「いい色ですね」
私の見ていた、あっさりとした緑色のカーディガンの感想をいいながら、数歩離れた距離を後輩は戻ってきた。
「そうだね」
いいながら私は進行方向へと進む。ぶつかる視線に、後輩は不思議そうに私をじっと見た。
「見ましょうよ」
「別に、いいよ」
「先輩、緑色好きなんですか」
「好き、というか、目についただけ」
だから気にしなくていい、と言おうとした私の腕に、後輩は自分の腕を絡めながら引っ張った。背中の方向にむかった力に、体のバランスが揺らいだ。その隙を逃さず、後輩はぐいぐいと私を入り口の方へと連れて行った。
「まって。本当にいらないの」
「いらなくてもいいんです。気になったっていうことが大事なんです。本も、服も同じです。目に入ったことに意味があるんです」
引く気のない後輩の言葉に、私は今回も諦めて体の力を抜いた。それを感じ取って、後輩は腕の力を緩めた。溜息を零しながら、彼女と同じ方向へ体を戻した。後輩がうれしそうに唇をゆりかごの形に揺らした。
「先輩素直になりましたね」
「後輩がいう言葉とは思えないよね」
「そういう上下関係を超えた関係ってことですよね」
「どんどん詰めてくる性格なのが分かったよ」
「ありがとうございます」
会話の最後を締めるように、もう一つため息がこぼれた。その様子を後輩は気にすることなく同じ方向を向いた私の腕に、もう一度腕をしっかりと絡めた。こういう女の子同士の距離が懐かしく、そういえば昔はこういう関係性が苦手だったことを思い出した。思い出したが、けして後輩にたいして不快な気持ちになったわけではなかった。
硝子の途切れた店の入り口にも、秋に流行るという色味や形の洋服が並んでいた。他の店よりも少し価格帯が上の店だからか、店内は休日であるのに、賑わいからは少し遠い状態だった。その代わりきちんと一点ずつを吟味する様子のお客が数人散っている。接客をはりついてするタイプの店ではないようで、私と後輩も横を過ぎる時に挨拶をされたくらいだった。色は抑えめ、流行は取り入れるけれど、来年にも着られる程度のものに留めている。客層にあった値段と接客に、今の年齢ではつり合いのとれない店なのではと思ったが、後輩が嬉しそうに私が目を留めたマネキンの方へ向かっていくのを、私は結局とめることはできなかった。
マネキンの前までやってくると、私が何か言う前に、後輩が近くにいた店員に試着をしたいと声を掛けていた。遠慮しようとする私に、商品を手渡しながら店員の女性が笑った。
「どうぞ着てみてください。商品の良さが一番わかる方法なので」
押しつけるわけではない、穏やかなその声に、私はすんなりとカーディガンを受け取ってしまった。後輩が楽しそうに試着室へと私の背を押した。私は、手の中のふわりとしたさわり心地に、気持ちが揺れた。
店内の雰囲気に合った、くすんだ水色のドアを開き、大きな全身鏡の前に立った。夏の間にも、何度もこうしていろいろな店の鏡の前に立った。どこの店も清潔で、夢を見たままで居られるように、細やかに配慮が施されていた。人というのは、こんなにも尽くされて着る物を選べるのかと驚いた。今まで私がしてきた買い物は、必要な物をサイズで選び、お金を払い自分のものにするだけのことだった。自分の肌には何色が映え、どんな柄が似合い、どこまでなら流行を受け入れる気があるのか。形は。素材は。カットソーは、スカートは、ブラウスは、パンツは。鞄は。靴は。スカーフは。アクセサリーは。
そんなこと自分が知る必要があるとは思わなかったのに。知ってしまった今、私はどうしていいのか、分からなくなっていた。後輩はきちんと私が着た姿を吟味し、似合う似合わないはもちろん、襟の形がもっとこうだったら、ここに色があればと、研究を深めていった。いったい何件の店を渡り歩いた夏だっただろう。そうして本来の目的である後輩の服を見ないままに夕暮れを迎え、「じゃあ、今度ですね」と解散した日もあったくらいだった。
後輩は、自分の考えで動いている。彼女は賢く、そして行動するときには自分自身のための決意をしっかりと軸にしている。だから拒むことができないのだ。私は今、とてもふらふらしているから。
「着られましたかー」
明るい声がドアの向こうから聞こえた。袖を通した緑色のカーディガンを、鏡の中の自分とみていた。明るくはない、オリーブグリーンといった方が近いかもしれない。綿花の素朴さのなかに、カシミアが少し織りこまれているために、さわり心地がとてもやさしい。袖丈もちょうど良く、守られているような感覚を覚えた。
「せんぱーい」
「着たよ」
言いながら開けたドアの向こうで、後輩がぱっと大きく笑顔になった。その顔は前にも見たことがあった。
「とっても、似合っています」
前に私がワンピースを着た時に見せた笑顔だった。私はおざなりに笑いながら頷いた。似合うものを知る。似合う物を自分へ与えることで、もたらされるものが、私にはあ、ありに過ぎるのだ。
「そう。でも、今日はいいかな」
言いながらドアを閉め、商品が傷まないようにそっと腕を抜いた。やわらかな肌触りが離しがたく思うくらい、このカーディガンを私は気に入っていることが恨めしかった。適当に畳んで、自分が着ていた薄手の上着を羽織り直した。この上着を買ったのは、まだ中学のころだったから、どこか子供の雰囲気が抜けていない。色が黒なので、なんとか今も着られているという上着だった。さっきまで自分を包んでいたものへの執着が、燃え上がりかけたが、大きな溜息でそれを吹き消した。
ドアを開けて、店員に商品を返す。やはりすこし背伸びになってしまうと、礼をいいながら言い訳をした。
店をでて、また騒がしい空気が周りを満たす。後輩は私の隣に並びながら、何も言わなかった。腕にも、もう手は回しては来ない。そのかわりのように、そっと彼女は私の手を握った。目を向けても、彼女は前をみていて、私の視線だけが、その滑らかな頬にあたって落ちていった。
こんな時には、後輩は目を合わせない。かわりのように、握り込まれた手の温度だけがくっきりと、彼女の感情を伝えてくるのだ。
彼女は私が似合うものを、もう知っていた。私よりもくっきりと、私のことを見ているのだ。その事実を受け入れたくないと思いながら、それなのに私は小さな爪を食い込ませるように、後輩の手を握り返してしまうのだ。
学校の教室の窓辺から、見下ろす木々の色が変わっていく。去年の病んでいくような色の変化ではなく、きちんとした科学的な変化。生きていることの生体反応としての変色。そうやって散っていく様子までが、すべて循環の正しさとしてそれぞれの木々ごとに織り上げられている。一枚の葉が風に揺られて、今、はらりと落ちていくのを目が追った。
教室の中もまた少しずつ変色が始まっていた。女子たちのカーディガンの色が深みを持ち始め、目立たないように塗られたリップの色が、最新の落ち着いた色味になり、眉の書き足された部分までが、濃い茶色に移り変わっていた。
私のクラスの男の子たちはわりと大人しく、三つほどの大きな塊に別れ、それぞれで勉強や部活のことを話し合っていた。
私は夏休み前ほど、周りに溶け込む努力をしなくなっていた。
私の前には男子たちのグループが集まって話し込んでいるが、自分の席を立つ気にならず、私はそのまま外を見ていた。本は、今も読んでいるが、私にとっては騒がしかった夏休みを超えて、その役割が大きく、決定的に変質してしまった。机の中の小説に、そっと片手で触れる。しっくりと手に馴染むような紙の加工が気持ちよかった。後輩に借りることが増え、彼女の語る話を聞いているうちに、私もよく読む作家というものができていた。どうしようもない心の状態でも、ゆっくりと文字を拾っていけば、いつの間にかそれは嵐を遮ってくれる場所へと変わっていた。
言葉が選ばれる理由が、私のなかにしっくりくる。そんな作家を見つけられた。最初は後輩に借りて読んでいたが、いつまでも手元に置けるわけではないと、当たり前のことに思い至り、本屋で買い求めることが増えた。バイトもしていない私が、買える本の量は限られている。本屋に行く度に長い時間悩んで、一冊をレジに持って行くということが増えた。
私は、けして本をよく読む人間ではなかったために、部屋にある小さな本棚を整理し、物を減らし、本を置く場所を作る必要があった。物はできるだけ増やさないように生きていかなくてはいけないのに。そう思いながら、私は自分の物になった本に愛着を持ってしまっていた。
あなたが病院のベッドの上で、何度も本の表紙を撫でていた様子を思い浮かべた。その姿はとても静かな空気に満たされていた。けれど、滲み出すものがあまりに真摯で、波を失っている部屋の中、あなたに深く落ちていく。内側に層を作っていく諦めや、諫められた感情は、あなたにどんな嵐を起こしたのだろう。
秋は、散っていく葉の合間へと音を洩らすものだ。
あなたが見つめていた世界が、こんな四角い世界ではなかったことを、私は知っていた。
あまりに共感の深い人だったから、外と繋がる様々な人の中で、自身へそれを取り込んでいく人だった。見たことのない景色が、自分の力で描ける人だったのだ。
次の授業の予鈴が鳴っていた。グループが三々五々に散っていく。
私は撫でていた机の中の本から、手を振るように手を離した。
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