見出し画像

余情 最終話〈小説〉

 あなたとはその後も、毎日会った。
 あなたと私は、毎日私の額とあなたの額をくっつけた。
 私は毎日あなたに好きと伝えた。
 あなたは一度、あの緑の本を私に読んで聞かせてくれた。あなたの読むその詩は、私の中に刻まれている言葉よりもずっとやわらかだった。
 私もあなたも、何度も泣いた。そのたびに笑い合った。
 あなたは私のたったひとりだ。
 あなたにとっても、私はたったひとりだ。
 あなたは私に緑の本を手渡してくれた。私は「ありがとう」とそれを受け取り、そして赤い本をあなたに贈った。
「すべての愛情の姿だね」と、あなたは何度もその詩を読んでいた。

 
 あなたは、九月に入ってすぐに体調を崩した。
 私が来ても、起き上がれなくなった。あなたのおばさんは、私の肩を抱いて泣いた。私もその涙に自分の涙を添わせた。
 最後の日、あなたは呼吸器を付けた姿で、私を呼んだ。私はまた何かが変わったことを確信した。あなたも、それを感じているようだった。小さな小さな声で、あなたは私に言った。
「やっとお別れが言える」
 私はあなたの口元に耳を押しつけるようにして、あなたの声を拾った。人はこんなに静かに涙を流せる。私は自分の心臓の音さえ最小限に、あなたの声を受け止めることに集中した。
「ありがとう」
 それが、あなたが口にした言葉の最後だった。ゆっくりと呼吸は弱まり、ある一線を越えた瞬間、世界から分離するようにあなたは息を引き取った。
 あなたの手を握っていた私は、看護師とあなたのおばさんの手にそっとその場を下がらされた。あなたの脈や瞳孔の確認をして、医師は静かな声であなたの死を告げた。
 私の中に、今まで見たこともないほどの静寂が埋め込まれた。ああ、これは私の一部が消失したのだと分かった。あなたの中の私は、ちゃんと消えることが出来たのだ。あなたの手を取って。それが実感として理解できた。それならば、あなたの言った、私の中に生きるあなたも。
 私は近くの壁に寄りかかり、その場に座り込んだ。あなたの死を受け止めた。あなたの中の私の死も受け止めた。送り出したのだ。背中は一瞬で消えてしまったけれど、確かに見送ったのだ。


 私は、あなたの体が部屋を移されていくのを見届け、あなたのおばさんの隣に立った。
 彼女は目を腫らして泣いていた。涙がどうやっても止まらないようだった。鼻を啜りながら、私に気付いて目だけで笑おうとした。
「最後に立ち会ってくれてありがとう」
「こちらこそ、毎日押しかけてきた私を追い出さないでくださって、ありがとうございました」
 彼女は驚いたように私を見た。私は鞄の中から紙切れを取り出した。それを彼女に差し出した。
「よかったら、私に話を聞かせて下さい。あの人の小さかった頃のこととか、あの人と話した本の話を。もちろん、気が向いた時でいいんです。待っています」
 あなたのおばさんは、黙ってその紙を受け取ってくれた。私は深く頭を下げて、病院を出た。
 冷房のよく効いた病院から出ると、やはり目眩がした。肌を傷つける日の光に、私は目を向けた。三度目のこの光との邂逅を心で告げた。


「先輩、この本はもう読みました?」
 後輩が私の前に一冊の本を置いた。私は今読んでいる本を閉じて、その本を見た。
「読んだよ」
「えー、これもかあ」
 そう言って、後輩はその本を元の場所に戻しに行った。図書室では、私と後輩の会話に寛容な生徒たちが、それぞれの放課後を過ごしていた。今日は珍しく、図書室の鍵の管理をしている先生も来ていて、何か本を読んでいた。
 春はゆっくりと過ぎていく。長く続いた気候のおかしさが、ここに来て鞭を飴に持ち替えたようだった。桜はとうに散り、若々しい緑が私の背中の向こうにある。開け放たれた窓から、遠く運動部の声が届く。私は閉じた本を開きながら、後輩のうろつく本棚を見た。後輩は、私の読んでいない本を探す遊びにハマっていた。今のところ私の全勝なのだが、後輩は余計燃えると言い、その遊びをやめない。私はそれに付き合いながら、放課後を過ごしていた。私が読み始める本を見る度に、後輩は悔しそうな顔をしていた。
 後輩を、今度は私の方が先に見つけた。そっと彼女の側で本を選びながら、懐かしいその姿を新鮮な気持ちで見ていた。本を真剣に選ぶ横顔。肩先で揺れる髪のやわらかに光を返す様子。見慣れていた彼女の、よく知っていた幼い手首。ひとつひとつを目にとめる私に、後輩は気づき、目を合わせた瞬間に私は笑いかけた。
「いつも真剣に本を選んでいるね」
 そう声を掛けた私に、後輩は少し警戒するように目を向けたけれど、私の抱えている本のタイトルを見て、急にその態度は軟化した。
「その作家さん、私大好きなんです」
「私も」
 そう言った私に、後輩は眩しいくらい嬉しそうに笑った。柔らかに細められた彼女の目に、橋の上であの日、落ちていく最後の私が浮かんで、そっと消えた。
 図書室の隅で私たちは小声で話をした。好きな小説の話をし、その作者がよく読む作家の話に広がり、話の枝葉は遠くまで広がり、拡がった木陰に後輩も私も満足を覚えた。
 チャイムが鳴り、図書室を閉める時間になった。私と後輩はそれぞれに本を抱え、図書室を出た。後輩は私の抱える本を、次に読みたいと言った。返すときは必ず声を掛けて欲しいと言い、そっと私の胸に付けられた名札を見た。
「先輩は部活はしてないんですか」
「そうだね。放課後は大体図書室にいるよ」
「じゃあ、また明日ですね」
 上機嫌で後輩は少し先を歩き、階段の前で私を振り返った。
「先輩、私、〝らん〟っていいます」
「どんな字を書くの」
「嵐です。私は大嵐なんですよ」
 そう言って、階段を駆け下りていく。跳ねる黒い頭に、私は笑った。そんなふうに階段を下りるにはどうしたらいいのか。先に踊り場まで下りた彼女は、止まっていた私を呼んだ。

「先輩」

 はっとして顔を上げる私に、今度こそと期待を込めた表情で、嵐は次の本を差し出していた。
 図書室の中は明るく、彼女の手の中の本を見ながら、私は口を開いた。


 あなた。
 想像を込めて、私は、あなたを呼び続けています。
 いつか届く、光を呼ぶように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?