余情 18 〈小説〉
後輩の家に寄るようになって、彼女の家族とも話をするようになった。
二人だけのときは、彼女の部屋で大きなマグカップのソイティーを飲み、彼女の母親が居る時は、リビングのテーブルで華奢なティーカップで紅茶を飲んだ。
彼女の母親は、銀縁の眼鏡をかけ、後輩とは違う、切れ長の目をしていた。近寄りがたい雰囲気の女性だった。年齢は私の母とそれほど違わないと思うのに、中に詰め込まれたものの密度が全く違うのだ。
紅茶を飲みながら、本の話をする時もあれば、唐突に日々の話をはじめた。旅行に行くと必ず本屋に寄ってしまって、家族で行くと帰りの荷物が大変なことになってしまうこと。昔飼っていた猫は、犬のような性質を持っていて、それは今読んでいるこの人物のようだ、と脱線しては、やはり本の話へ戻ってきた。後輩の母親は、けして後輩の子供時代を懐かしく語って聞かせたり、私のことをあれこれと聞いてきたりもしなかった。語り口も淡々としていて、自分のための整理整頓を、私と後輩に語ることで済ませているという感じだった。
後輩が、
「うちは母親が回しているんです」
といっていた。その口ぶりは、自慢をしているようにも、憧れているようにも見えた。
彼女の母親とは違い、その父親も兄も、どこかぼんやりとやさし気だった。
後輩の母親を最初に紹介されたからなのかもしれない。彼らはスポンジのようで、本という物から採れる水分を、ひたすら飲み続けることが大事なようだった。静かで、私を歓迎も邪魔にも扱わなかった。
それは後輩の母親も同じで、だから私は彼女の家に通い続けることができたのだろう。
「ようこそ、お泊まりへ」
そう言って玄関を押し開いた後輩は、いつもの制服ではなく、あわい水色の短いパンツワンピースを着ていた。ひらひらと揺れる裾が、太ももの白に映えて、可愛らしかった。むき出しの足が、ほとんど日焼けしていないことにも驚いた。
「お邪魔します。白いのね」
私の率直な言葉に、彼女はどこか呆れた目をして言った。
「先輩が気にしなさすぎなんだと思います。今からでも気をつけないと、素敵な服が似合わなくなりますよ」
「いいよ。服は着られるものを着るだけだから」
玄関先で靴を脱ぎながら、いつもとお互いが違う服を着ているだけで、なんだか落ち着かない気持ちになった。後輩が私の服を見て、溜息を吐いた。
「何?私は後輩の家にお泊まりに来ただけなんだから、着飾ってくるわけないでしょう」
「先輩は可愛い後輩の家にお泊まりに来る服しか持ってないと思います」
たしかに。
そう思いながら、彼女に家族は誰かいるのかを確認した。今は誰も居ないというので、とりあえず母に買っていくように言われたお菓子を後輩へと渡した。夏らしい、涼しげな和菓子だ。後輩の家族の好みかは分からなかったが、紅茶がよく出てくるお家に、和菓子をお土産にしてよかったのかと、今さら心配になった。受け取った袋の中を覗き込んだ後輩は、その場で一度跳ね上がり、嬉しそうに私を見た。
「うち、飲み物は紅茶なんですけど、お菓子は和菓子が好きなんです。よく分かりましたね。ありがとうございます」
後輩はスキップをしそうな足取りで台所へと消えていく。声だけが戻ってきて、
「先に部屋に行っていてください」
と言った。それに返事をすることもなく、私は通い慣れた階段を上りだした。壁の飾り棚に飾られている本が何冊か変わっている。季節で入れ替えたり、選者である後輩の気分によって変えられたりするという壁の本たち。それは彼女にとっては自分を客観的に考える一助になり、家族からすれば彼女の精神状態をいつも感じられるものとなっている。彼女の母親は、後輩が本を取りに部屋へ戻っている時、零れるように
「本は、私たち親といっしょに、一本の柱としてあの子を一緒に育ててくれている。私は、同志みたいに思っている。あの子にとっては小さな頃から側に居て、ともに育ってくれた友人であり、すこし年上の目線から手を引いてくれた兄弟のような存在なのだろうけど」
すこし下を向いた目は、ゆったりと広げられていて、その中には豊かな世界が揺らめいていた。茶色がかった内側の世界は、線が太く、しっかりと描かれているのに、力は込められていない。しっかりとした彼女の母親の首には、午後の遅い光が当たっていた。その肌に当たったことによって、光は変質して、更にやわらかく生まれ変わっていた。
「そしてあの子に、今本が手渡してくれたものが、あなたなのだろうね」
彼女の母親は、そう言いながら今度は私を目の中で抱きしめた。瞳の中でゆっくりと、たしかな線に描き直される瞬間が、じわりと内側から私本体へと染み込んでくるようだった。母親という生き物は、こうして内側に作用してしまうものらしかった。
「私では中身が偏り過ぎていますよ」
彼女の母親はじっと私を見て、あっさりと笑った。
「当たり前だよ。本なんて、偏っているものだし、それを書いてる人間なんて輪をかけて偏っているものなんだから。そうじゃなきゃ、世界は成り立たないよ」
後輩の出来てきた課程が、この母親を見ていると感じることが出来た。穏やかだけれど、芯は固い。その固さを維持するために、日々考え続けている。そして必要な箇所は柔らかく作り直す。それは手間をかけて、時間を有限と理解しているからこその作業だ。そんな人が母親だから、後輩は私に声を掛けずには居られなかったのかもしれない。
私はいつもの本を読む絵のかかった彼女の部屋のドアを開いた。適当な場所に荷物を置いて、本棚を眺めはじめる。現代作家の多い本棚は、小説も多かったが、漫画や画集、詩集も混ざり合って並べられていた。
本棚はその人の内面、または理想を表している。そんなことを聞いたことがあったが、たしかにこれは後輩の内面を作る欠片の集まりなのだろう。ここから彼女の中に何かが置かれ、芽吹くものもあれば、朽ちて忘れられ、次の欠片のために砕けて地層を作っていくものもある。そうやってあの鮮やかな表情は生まれたのだ。
あなたも本が好きだった。あなたは自分の命の時間の短さを知っていて、手元に残すことは殆どなかったけれど、ほんの数冊、最後までそばに置き続けていた本があった。それらのほとんどが詩集で、そして特に大切にしていたのが、私へ譲られた緑の表紙の一冊だった。
一度目の別れの時には渡されなかった本。正直に、私は戸惑っていた。あなたの持ち物が自分のもとに残る。それがあまりにも当たり前の様子で存在するから、私はそれを開いては、嵐の中に行かなくともあなたとの時間を思い描くことが出来た。
「何読んでいるんですか」
開けたままにしてあったドアから、後輩が大きなお盆を持って入ってきた。氷の入ったソイティーと、さっき私が持ってきた和菓子が小皿に盛られていた。
「まだなにも」
私は本棚を離れて、後輩がお盆を置いたローテーブルの向かいへと座った。
「今日も何かおすすめしてくれるんでしょ」
「もちろんです」
それぞれのカップを手に、私たちは黙って夏休みのはじまりを祝った。
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