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余情 36〈小説〉

 家に帰り着いた私は、母に適当なことを言って部屋に引っ込んだ。部屋のドアを開けると、昼間の熱気がまだ残っていた。ひらとも揺れないカーテンを見つめながら、私は後ろ手でドアを閉めた。そのまま座り込み、折りたたんだ足の上に額を乗せた。目を閉じる。浮かんでくるのは、白い手首と金色のブレスレットだった。
 体の動きを止めてからの方が、汗は噴き出すのは何故なのか。頬を滑り落ちていく汗の玉に、今は何も感じなかった。額と膝の頭がゆっくりと離れていく。私はドアを背にし、持ち上げた頭を軽く打ち付けた。小さく立てた音は、そっと薄暗い部屋の隅へと転がり、私は瞬きをくり返しながら窓を見た。ここからは空は殆ど見ることはできない。そのことを殊更に窮屈だと思ったことはなかったが、今だけはそれが少し残念だった。
 溜息が漏れる。自分から言い出し、後輩に突きつけた。そして置き去りにしてきたのだ。思った通りに、出来事は起こり、過ぎていった。それなのに何故こんなにも苦しい気持ちで、私は座り込んでいるのだろうか。まるで私が振られたみたいだった。そう考えて、私は、全くその通りなのかもしれない、と思った。私が後輩に別れを告げたような気になっていたけれど、それは私が自分の心に背けなかったからだ。私は、あなたという場所が見えにくくなるくらいならば、前には進まなくていい。それならば、と後輩は去って行ったのだ。一緒には進むことが出来ない。一人でなら、彼女はもっと遠くに行くことができる。行かれないのは、私の方だ。置いて行かれるのも、それを望んだのも、私だ。
 あなたの姿が、空気に揺れた。あなたの色彩を少しぼやけさせてしまっていた。あなたの写真など一枚も持っていないのに。焦って記憶の暗闇をかき回した。そこにしかもうあなたはいない。骨はあなたのお母さんが撒いてしまったし、そもそもあれはあなたの体の残骸でしかなかった。色の付いたあなたは、もう記憶の中にしかいないのだ。
 鞄にいれたままだった携帯が震えた。緩慢な動きでそれを引っ張りだした私は、光の中に浮かんだ文字を見て、そっとその光を消した。
 どうか。
 そう願ってもいいのならば、どうか、彼女が素晴らしい人と出会い、生きてくれますように。
 彼女の問う幸せに、過去ではなく、彼女との今や、これからを答えてくれる人と出会えますように。

 
 バイト先に後輩が来ることはなくなった。何度か、彼女の後ろ姿を感じて目で追いかけたが、それはどれも全く似ていない誰かだった。きちんと目を開いていたならば、見間違うことはないような。それを見間違えるほど、私の目は自分の都合を優先していた。全く違うものを、見間違いでもいいから認識したい、そう願う私のために。
 そんな風であっても、月日は生きている人間ならば洗い流していってくれるものだ。
 後輩のことを気にかけていた彼は、暫くの間は後輩のことで話しかけてくることもあったが、夏が終わる頃には他の女性へと心は流れていた。その女性が、私に休憩室で彼のことを話してくれた彼女ではないことは、少し残念だった。けれど、彼女はそんなことは全く気にしていないようで、時々いっしょになった休憩では、彼のこれまでの女性遍歴を話してくれた。今まで、彼が好きになる女性はみな本をよく買いに来てくれる人に限られていて、それ以外はそれほど繋がりが見えないのだそうだ。確かに、彼が今追いかけている女性は、後輩とは違う分類に入る容姿をしていた。
 私は、彼女に「告白はしないのですか」と聞いた。彼女は大きく首を横に振り、「そんなことをしたら、彼を見ていられないから」と笑った。その言葉が全てが本当ではないのかもしれないが、彼女の頬を染めた気持ちは、心からのものだった。私は彼女に「応援しています」と伝えると、「そっちも、気になるお客さんがいたら、教えてね」と冗談めかして返された。私は、笑って答えながら、そんな人が現れたら、すぐに辞めてしまうだろうと暗い穴にむかって吐きだした。
 大学生生活は順調に進み、時折続けていたあなたのおばさんとの連絡は、ついに季節の変わり目に少しやりとりをするくらいの頻度になっていた。そこであなたのお母さんの様子も少し聞くことがあった。あなたのお母さんは、なんとか生活を軌道に乗せられたけれど、お父さんの方が今度は体を壊してしまったと言っていた。今は、家の中で出来る仕事にシフトし、二人は穏やかに暮らしていくことだけに心血を注いでいると言っていた。
 私は、ただ日々を消化していくことに精を出すようになっていた。長すぎる休みの間はバイトに勤しみ、朝の仕事もそつなく熟せるようになった。新刊の多い日も、面倒な雑誌が入る日も、入った。ややこしい返本作業もできるようになっていた。
 後輩と会わなくなってから、はじめてのあなたの命日を迎え、私はパニックを起こしてしまった。
 朝、目を覚ました瞬間に現実に、私は耐えられなくなったのだ。胃からこみ上げてくるものを、飲み込むことが出来ず、なんとか起き上がった私は、今さっきまで頭があった場所へと吐いていた。黄色いその汁に、世界がゆらゆらと暢気に揺れた。目が回り、ベッドへ倒れ込んだ。吐いたものの上に落ちることだけは、どうにか避けたけれど、すぐ側の臭いに余計に吐き気が増した。
 あなたがいない日を、私は生きている。
 その重圧が、一気に私を押しつぶしてしまったのだった。
 ぼんやりとしていた私は、母が何度も呼ぶ声に応えることも出来ず、心配で上がってきた母を狼狽えさせた。
母はすぐに冷静になり、私の呼吸を確認すると、すぐに桶やタオルを持って戻ってきた。救急車を呼ぶべきか考えた据えに止めたと、あとで聞いた。助けられながら上体を起こし、壁に背を預けさせ、その間に枕のあたりの吐瀉物を母は片付けてくれた。私をもう少し横にさせておく方がいいと判断した母は、バスタオルを枕のあたりに被せ、私が着ていたタンクトップをはぎ取り、代わりのものを着せて、またゆっくりと横たえてくれた。母は私の額を何度か手のひらで撫で、「また様子を見に来るから」といって部屋を出て行った。その時にドアを締め切らなかったことが、母の精一杯の譲歩だった。母は私に「どうしたの」と聞くことをしなくなっていた。
 午前中を私はそのままで過ごした。この日はバイトを休みにしていて、久しぶりに自分の判断を褒めた。ああ、私はこんなに弱いのかと、身に染みた。普通の様子を保っていけると思っていた。嵐は弱まり、そして私はあなたのいない日常を受け入れているのだと勘違いしていた。けれど、そうではなかった。私は守られていたのだ。後輩の伸ばしてくれた腕の中で、私の心は保たれていたのだ。それが分かっただけでも、私は安心した。私にとって、今も世界の中心はあなたで変わりないのだ。私という世界の中に空いた大穴は、塞がることなく膨張していた。ぼんやりとした境界線を、一心に食んでいた。満遍なくそれは広がり、私をいつか飲み込むだろうと予感した。
よかった。これで私は。意識を手放しながら最後に見たのは、すでに光量が容量を超えている窓の外の白だった。
 それから私は、また毎朝の自問自答をはじめることになった。あなたの居ない世界で生きている朝だということ。自覚と、確認とを済ませての活動開始。私は起き上がり、朝食を済ませ、バイトをし、課題をこなし、空いた時間は本を読んで過ごした。本を買っても、読み終えれば売るか誰かに譲ることにした。いつの間にか私の本棚は、一人の作家の本と、あなたが残してくれた一冊が並ぶだけになった。後輩の選んでくれた服たちも、半分は処分し、そしてもともと持っていた服も半分は処分した。持っていることが苦しくない服だけを残し、私は生活をまわしていくことにしたのだ。

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