余情 31〈小説〉
「それで」と促されたとき、私は何を聞かれたのか、分からなかった。
目の前の級友の目が笑っていないのを見つめて、その言葉をもう一度噛み締めてみる。それでも頭に答えが浮かばなかった私は、困ったように彼女を見返した。
「後輩ちゃんのこと、どうするのよって話」
業を煮やした級友の言葉に、私は「ああ」と気の抜けた返事を返した。
彼女は卒業式を待たず、日本各地への旅を実行に移すという。それが明日だということを、私は聞いたばかりだった。そこへたった三文字を告げただけで答えを導けというのだ。それはあまりに難題だと思った。
「どうするも、こうするも」
私は級友から目を離して外を見やった。
窓のそばに揺れる葉の色が、くすんでいた。そのそばにそっと添えられている蕾が、今はまだ瘤のように木の皮と変わらない色をしていた。
未だに教室で過ごす私を、先生方は高校生活への名残りを惜しんでいるのだろうと、解釈してくれていた。もう最近は、自然と私の姿を受け入れてくれている。
私と級友しかいない教室で、唐突に私は窓を開けた。級友の顔が少し動き、寒さを身構えた。冷たい空気といっしょに、校庭で動き回る下級生たちの笑い声が放り投げられたボールのように届いた。
「あの子が、いっしょに住みたいって」
風が強く吹き込んだ。スカートの裾が揺れる。はたはたという音をたてて通り過ぎては、教室を出て行った。
私以外、学校に出てきている三年生は希だ。開け放った教室の扉が、閉められることはない。静けさだけが行き交い、時々下の教室からの声が走り去っていく。
色が褪せたまま、変わることがない場所だった。
「なんて答えたの」
「あの子が卒業しても、その考えが変わらなかったら、って」
「それは、実質承諾の返事じゃないの」
私は不思議な気持ちで級友を見た。彼女が、今までどんな考えで生きてきたのかを、私は知らない。けれど、そんなにもこの年齢の人間の心は移ろわないものだろうか。
彼女が座っている席が、誰のものだったのか私は覚えていなかった。同じように、私が座った席の後ろはどんな生徒が使っていたのか、朧気な影の一つとしてしか浮かんでこない。そこまでの淡泊さではないにしても、私と後輩との間に結ばれているものが、特別なものだなどと思える理由にはならないはずだ。
冷たい椅子の背を、撫でながら私はまた窓の外を見た。
「一年、私がいない学校生活を送れば、気持ちも変わる可能性はあるよ」
「あったとしても、その可能性をあの後輩ちゃんは摘み取って、君を選ぶと思う」
級友は笑った。
「絆が脆いことは、こんな女子高生にも分かっているよ。でも、若いことが決断の弱さの理由に全て繋がるわけでもない。あの子のこと、見くびりすぎてない?」
「むしろ、恐れているくらいだと思うけど」
「それなら、」
級友が立ち上がり、私の前に立った。
外からの光を遮り、彼女と世界の境界線が僅かにぼんやりと緩む。スカートが揺れる。彼女が夏服を卒業式に着たいと言っていたことを思い出した。こんな気温の中でも、まだ彼女は夏服を着ることを選ぶのだろうか。
彼女は腰に拳をあてて、足を少し開いて、大きく立った。
「それは後輩ちゃんを恐れているのじゃなくて、彼女に触れて変わる可能性を受け入れはじめていることを、自分自身が怖がっているのではない?」
級友の目は、真っ直ぐにこちらを貫いた。直線を引くことができる目だ。その目を受け止めると、彼女のなかの真っ直ぐさがそのまま入り込んでくる気がした。私はそれで自分の背骨がそっと正されているように感じる。いつも平たい大きな彼女の手が、指先まで伸ばされて、私の前のめりになる背中をただす。それが、彼女の言葉の正しさや、厳しさとは反してやさしい力なので、いつも戸惑って見つめ返してしまう。
「そうかも、しれないね」
「後輩ちゃんへの一年であると同時に、君にとっての一年でもあるのじゃない?」
私はもうすぐ旅立つ級友を見上げた。彼女は、自分が決めた行く先へ走り出す。いや、もうずっと走ってきたのだろう。その肌はいつも太陽のような光がこもっていた。
明るい人なのだ。彼女の旅立ちが、今やっと寂しいと私は感じていた。
「また、話を聞いてくれる?」
私の声は、思った以上に小さかった。その声を彼女は掬い上げ、両手でそっと彼女の耳元まで引き上げた。歯がこぼれる笑い方で、彼女は言った。
「そのつもりだったよ」
二人で笑いを小さく洩らしながら、私は自分の中に渦巻いているものを見つめた。私のための一年。私にはまだ、迷う気持ちが残っている。それを廃すための一年にするべきだ。そう頭では分かっているのに、この級友と話していると、どうしてもそうではない一年を選べるのではないかと、考えてしまうのだ。
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