小説の進捗と、詩を習いに行く気持ち
昨日は、日付が変わる30分前まで小説を書いていた。
40枚まで書いた。
書きながら、
でもこれってもっとすこしずつ分かっていくほうがいいよなぁ、
とか
もうこんな文章誰が読むんだよ、
とか
こんな文章読む人が可哀そうだよ、、、
とか思いながら、
書いてる。
そう思いながらも、書くことは楽しい。
たぶん、というか、おそらく、
小説をたくさん書いている間って体調がいい。
短期的に胸が痛んだり、
座っていられないくらいしんどくなる時間があるけれど、
ものすごく短時間で済んでいる。
書くってすごい。
これ駄目だ、というところは書き直し、
もっと書き方があるんじゃないかというところは考え、
そうやって書いていっても、
全然いいものになっている気がしない。
書いているときに、
無敵状態の精神状態になれる人が居ると聞く。
うらやましい。
そんな状態になって書いてみたい。
私はいつも大体自分の文章に溜息を吐きそうになりながら、
なんとか噛み止めて書いている。
そんな文章を出すなよと思うけれど、
いいって思えるものになるまで書いてたら一生出さないと思う。
でも、この間の“これを読んで誰かを楽しませられるか”という目線は、
大切に、特等席に座ってもらってそばにいてもらいたい。
今日は詩を習いに出かける予定。
母が朗読をしている関係で出たイベントで知り合った詩人の方が、
自分で営んでいる喫茶店で詩を勉強する会を開いているらしい。
その詩人の方が、母の朗読を気に入って、
何故か「詩をやってみないか!」と誘ってくれたそう。
そんなに詩に興味のなかった母に
「いっしょにいってみない?」
と言われたので、行ってみることにした。
詩を習うってどういうことなのか。
たぶん形式的なものがあるのかもしれない。
表現方法とか?
自分で書いていても「詩って何?」と言われたらなんと説明していいのか迷う。
お話でもないし、
情景を描写しているというのでもない。
でもその全てが入っているとも思う。
あえて言うと、魂のスケッチ?
ああ、こう言っていた人がいた気がする。
それを読んで、なるほどと思ったはず。
誰の言葉かは忘れてしまったけれど。
よく自分が下手だと思えた時が成長した時だというけれど、
詩は、一番よく分からない。
良く書けた、の基準はなんだろう。
表現が気に入った?
着地が気に入った?
タイトルとの結びつきがいいとか?
つまりは自分が気に入ったかどうかになってしまって、
ちっとも客観的に見られていないと思う。
毎日詩をあげているけれど、
いいねがつく詩はまったく読めないなと思う。
え、これそんなにいいですか、、、とよく思う。
どちらかというと、トップの絵や写真のおかげのいいねじゃないかと思うことも多い。
(本当に無料で使わせてくださっている皆さん、ありがとうございます)
(絵も写真も得意ではない私にとって、ものすごく助かっています)
そういう疑問のようなものが、
すこし解きほぐれる一糸になったらいいと思う。
誰かに習うということをあまり経験してこなかった気がする。
それは私の性格的な問題が大きいけれど、
あまり必要に感じてこなかったのだ。
好きに書けることが大切だった。
今も、一番はそうだと思っている。
でも、同じくらい誰かの基準を知ることは面白いことだと思う。
昼からの時間がそっちに割かれるので、
これを書いたらまた小説を書きます。
すこしでも今自分の書ける一番の文章で書けますように。
曇り空。
今日もどうぞ書けますように。