余情 40〈小説〉
夏の暑さに、窓を開けて過ごすことを諦めたのは七月の終わりだった。この夏の猛暑はあなたが死んだあとの異常気象のような急激な上がり方だった。またあの不安で世の中全てが揺れるような日々が来るのかと思うと、気持ちが沈んだ。八月に入って、朝晩に少し涼しい風が吹くことにどれほどほっとしたか。
私の体調は例年のごとく低空飛行を続けていたが、8月を半分過ぎた頃についに限界がきた。朝が始まるよりずっと早くに目が覚めた。時間を確認しようと枕元にある携帯を取ろうとしたが、上手く手が動かなかった。不安よりも、不思議な気持ちが先に湧き上がった。体を起こそうにも、鉛を流し込んだように重く、狭い感覚を行ったり来たりしている痺れが、肌の底を埋めていた。熱があるのだろうか。そう考えていると、頭を打ち抜くような痛みが走った。どれも今までの風邪の症状を超えるもので、そこまできてやっと私は死を感じた。体がおかしい。生と死の間の、私は今確実に死の方へと傾いでいることを感じた。
彼女が私の様子を見に来たのは、私の部屋でアラームが鳴り続けていたからだった。
彼女が遠慮がちに鳴らしたノックに、私は何も反応することが出来なかった。彼女の中の不振よりも不安が先に走りだし、部屋のドアを開けさせた。彼女は一目で私の様子が普通ではないことに気づき、急いで彼女の母親に電話をした。
彼女は、母親の支持のもと私の意識があるのかどうかを確認し、すぐに救急車を呼んだ。私の母への連絡は、彼女の母親からしてもらったそうだ。彼女は、いつも使っている私の鞄から財布を取り出し、保険証を探した。それを自分の財布に入れ、連絡した救急車を待った。
十分ほどで到着した救急車に共に乗り、彼女は搬送中に伝えられるだけのことを伝えた。私の母が病院に到着するまで、彼女は私の側にずっと付いていた。ぐったりとして動かない私を、放心したような状態で見つめ、泣きだすのを必死で堪えているようだったと、担当してくれた看護師が話してくれた。
私は病院に運ばれてから、丸二日高熱を出し続け、意識は朦朧としたまま過ごした。やっと熱が少し下がった時、私は体中の関節の痛みに、起き上がるどころか、寝返りを打つことにも苦労した。頭にも違和感があり、もしかしたら脳の端の方が、少し溶けてしまったのではないかと思った。熱の痛みは確かな傷跡として体に残っていた。
結局、私は一週間ほど入院をすることになった。その間、彼女は一度も見舞いにはこなかった。携帯で言葉のやりとりはしていたけれど、電話で話すことはしなかった。退院の時間を伝えた私に、彼女からは、「迎えに行きます」と返事がきた。
見上げる病室からの空は、ぼんやりとしていて、見ていると苦しくなるほどに遠かった。白く薄いカーテンの向こうを、出来るだけ見ないように、私は過ごした。体が高熱からのダメージから回復してきた頃、私は持てあました暇を、本を読むことで潰した。その本は、彼女が母へと託したものだった。私が読む速度をよく知っている彼女らしく、袋に入れられた本は、読み終える頃には新しいものが届いた。母は私が本をそれほど好きだと思っていなかったらしく、病室に来る度に本を開いている私を見ては、そのたびに不思議そうな顔をしていた。
急な入院だったので、殆どのものを病院で買った。私のように急に運び込まれる人が使うことが多い、買ったものを引き取りまでしてくれるサービスを利用したのだ。そのために私が退院の際に手にしていたのは、彼女が差し入れた最後の本が入った袋くらいだった。読み終わった本は、新しいものを持ってくる度に、彼女が持ち帰ってくれていた。
小さな声が漣になって辺り一面に広がっては返す受付で、まだ少しふらつく体を、私は椅子に深く沈みこませていた。光が降り注ぐように、明るかった。
この季節が、私は嫌いとも好きとも感じられなくなっていた。力なく目を開いて、本の文字を食べながら、私の中は真っ白く、全てが果てていた。
お金の清算をしている母の背中が、本に埋まる視界の上のあたりに見えて、どうしてかそのまま私は見つめていた。細いその線は、突然の娘の入院に心底疲れているようだった。よく立っていてくれると、感謝した。こんな風に入院するほどの不調は、はじめてだった。
文字を撫でながら、自分の意識がぼやけていくのを感じた。だからそっと肩に置かれた手を、私は勘違いした。集中して、今を遮断していたから、病院で私の肩を叩いたその手が、あなたのように思ってしまった。
顔を上げた私は、泣いていた。
止めることが出来ないほど、涙は次々に溢れては零れていった。そこに立っていたのは、もちろんあなたではなく、彼女だった。いつものように、よく似合う格好をした。夏をいっぱいに感じる白いブラウスには、透けた生地で蝶が羽ばたいていた。深い青のスカートが、光沢を走らせて、足の爪まで青で揃えられていた。彼女の上から下までを私は見つめて、やっと自分の勘違いを認めた。あなたではないことを、認めた。そして止まらない涙をほったらかしたまま、笑った。
彼女は表情を出すことを怖がった様に見えた。それは一瞬のことで、すぐに彼女は私を抱きしめた。白がやさしく目を伏せさせる前、見上げた彼女の、噛み締めた唇が見えてしまった。
母が戻ってくるまで、彼女はそうしていた。何も言わずに、私の涙を吸い取ってくれた。母の足音と、彼女にかけられた声に反応して、その腕は解かれた。彼女はいつもの可愛い後輩の顔をして、「心配しましたよ」とか「さみしかったです」と言った。母が改めて彼女にお礼を言うのを見ながら、私は涙が止まっていることに気付いた。
母の運転でアパートの前まで送ってもらい、私と彼女は部屋へと戻ってきた。
私は本を彼女に返しながら、何か圧倒的なものを超えてしまった気がしていた。それは小さく躓く程度の段差のような顔をして、超えるには、ほとほと気が遠くなるような積み重ねが必要なもの。私が一度目の十年を生きた時、これを超えることはなかった。それを、今、彼女と超えた。
私はまた涙が出そうになるのを必死に堪え、彼女には疲れたから少し休むと言って自室へと戻った。私の部屋も、空気を入れ換えてくれていたらしく、カーテンは開けられていて、窓からは頼りない風が入ってきていた。
私の使っているベッドには、ヘッド部分に小さな棚が付いている。携帯や時計などの、小さなものを置いておけるその棚に、私はたった一冊、あなたにもらった本を置いていた。緑色の表紙が、明るすぎる光にも怯えることなく、堂々とその色を返していた。まるでこの季節の木々のような姿だ。
手に取ると、紙は太陽の温度がうつっていて、温かかった。表紙を開く。紙の白は少し濁っていて、けれどその上に乗る言葉はいつでも精錬としていた。一ページに一行だけで、余白は贅沢に踊っている。言葉の鋭さが現実を切り裂けるのならば、この一冊は世界最強の武器となるかもしれなかった。
私は冷房を入れるのも億劫に感じ、本を側に置きながら、ベッドに沈んだ。窓の外からは、過ぎゆく夏を引き留めるような光が射しこんでいた。
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