余情 41〈小説〉
あなたの病室の夢を見た。
私は空っぽのその中で、立ち尽くし、そして窓から溢れる空を見ていた。青すぎて、空ではないような。私たちの空ではもうないもののような。空を見ていた。
あなたの命日。私は普通に起き上がった。
あんなことになったばかりで、心配もあったが、いつもよりもどこか清々しくさえ感じる朝だった。
空は高く、雲は九月に入ったことなど気にすることなく盛り上がり、高くその背を伸ばしていた。
夏は、やがて明ける。そんな当たり前のことを、唐突に意識した。あなたの死を跨いで、世界は変革を起こしたような気がしてしまう。本当は何一つ変わってはいなかったのに。世界というものは、悲しみに敬意を払うものではなかった。悲しみ以外の、どんな感情であっても、結果は変わらない。それが世界というものだと、私は分かっていた。
私は彼女に出掛けてくると言い、家を出た。彼女が付いてきたいと言ったら面倒だと思っていたが、そんな様子は全く見せず、不自然なほどあっさりと見送ってくれた。
アスファルトの道を踏みしめていくと、熱が薄っぺらな靴底を焦がしはじめる。だから少し早歩きで、私は目的の場所へと歩いた。本当は、バスを使うことも出来たのだろうけれど、私はこの暑さの下を歩いて行きたかった。肌の色が変わっていくのが分かるような日差し。帽子を被っていても、ぐらぐらと頭を掴む熱。私は汗を大量にかきながら、全身を真っ赤にして、あなたの入院していた病院へ辿り着いたのだった。
自動ドアを潜って冷房が肌を包んだとき、私の体の中の残り少なくなっていた水分が歓喜の声を上げた。滝のような汗を、ハンカチで拭っていたが、もうハンカチの含水量は限界を超えようとしていた。行き慣れたトイレへ駆け込み、私は顔や腕、水が届く範囲を濡らし、ハンカチも一度洗った。強く絞ったそれを、首の後ろに当てる。冷たさが薄まってくるとそのまま拭えるところを拭っていき、もう一度洗った。
それから私は病院の売店へと入った。ミネラルウォーターだけでは危険な気がして、スポーツドリンクも一本買った。二本を抱えたまま、私はエレベーターに乗り込み、彼と最初に上がった休憩スペースへと向かった。
明るい日差しが差し込んでいるのに、違う世界のような涼しさが満ちている。今も変わらず、ここにはあまり人がこないようだった。本当に私は、違う世界にきているのではないか。そんな空想をひろげながら、私は長椅子に座ってスポーツドリンクを空にした。喉を駆け下りていく水分に、そこら中の細胞が喝采を上げて、走り寄ってきたのが分かった。
体の内側と外側が適正な状態になんとか戻ると、私はぼんやりと空を見上げた。そのままでどれくらい過ごしていたのか、静かだった廊下から小さな足音が近付いてくるのに気付いた。その足音のほうへ顔を向けると、小さな女の子が立っていた。女の子は私に注意を払うでもなく、自動販売機へtp駆け寄っていった。細い手足は頼りなく、髪の毛が隠す首筋も、同じ儚さを飼っているのだろう。静かな空間に、自動販売機が吐き出す音は大人げない。そんなことを考えていたけれど、少女の方はその音に全く臆せずに取り出し口へと小さな腕を差し込んだ。取り出したジュースを持って部屋に戻るのかと思っていたが、少女は私の隣へとやってきて拳三つ分ほど離れて座った。投げ出した足をぶらぶらとさせながら、そうすることが当然であるかのように私を見上げた。
「こんにちは」
きらりと光るような声だった。幼い声というのは、こんなにも美しいものだったかと驚いた。
「こんにちは」
私はその声に気圧されそうになりながら、何とか少女へ挨拶を返した。少女はにこりと笑い、小さな手で缶のプルタブを開けようとした。けれど、小さな爪では力が足りず、苦戦した。思わず私は彼女からその缶を取り上げ、そっと開けた。それから、ジュースを取られたままの形で固まっていた手の中に、それを戻す。少女はよほど飲みたかったらしく、手に戻った缶ジュースを勢いよく口に持っていった。ごくごくと、喉を動かす音が聞こえそうなほど、少女は勢いよくジュースを飲んだ。これは止めた方が良いのではないかと心配になった頃、少女はやっと缶を口から離した。私の方を見て、にっこりと笑いながら「ありがとう」と言った。笑い返してから、私はまた窓の外を眺めた。少女は飲み終わると、きちんと自動販売機の隣のリサイクルボックスへと缶を放り込み、私に手を振って来た時よりも軽い足取りで去って行った。
私の体も、それを合図にして休憩スペースを後にすることにした。
すぐ側の階段を一段一段上っていき、私は見慣れた場所にたどり着いた。あなたのいた病室には、今誰も入っていないようだった。たまたま空いていただけだと分かっていた。それでも私は、あの日まで時間が巻き戻っていく感覚を止めることはできなかった。ドアを開けて、中に入る。プレートに名前の入っていない病室。あなたが出たあとのような清潔。ここはそういう場所だ。誰かが出て行けば、それまでの形跡など欠片も残さないように、次の患者が入るまでの空白すら清潔に保たれる。
私は窓のところまで歩いて、外を見た。カーテンの色は、入れ替えられていて、今は白の強く入った緑色だった。空間は更新され続けていく。それに感慨など持つべきではないと分かっていた。ここは私のための場所でも、あなたのためだけの場所でもないのだ。
それでも、頬を伝う涙はどうすることも出来なかった。せっかくさっき補充した水分は、こうして流れていく。ままならない。あなたがいないだけで、こんなにも世界は遠くなった。遠くなって、私の関わりの薄いものになっていくはずだったのに。どうして私は今この病室での全ての方を、遠く感じているのだろう。
それがどうしようもなく、私に涙を流させた。
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