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余情 20 〈小説〉

 かわいい後輩は、夏休みの間、私をよく呼びつけた。
 暑くて、溶けてしまいそうな光の中、やれ服を見に行こう、さあ本屋をはしごしようと連絡を寄こし、様々な場所へと連れ出されていった。そうかと思えば彼女の部屋でひたすら読書をすることもあった。とにかく数日と空けることなく連絡がはいり、会っていた。
 その合間にはあなたのおばさんにも会っていたので、夏休みの間、私にはあまりひとりになる時間がなかった。
それがいいことだと、言い切れなかったのは、私にとってそれがあまりに心を揺らす出来事だったからだ。
後輩は私の私服のバリエーションを把握した二人目になり、彼女のあたらしい服を選ぶついでだと服屋を何軒も回って、私の服を選ばれたりした。私は、もうすでにあなたが知らない服を着ているのだ。
その事実に呆然とするのは、私が弱いからなのかもしれない。こうやって人は死を受け入れていくのかと、手引書を開いたまま、私は動揺していた。震えは細く、手から這い上がり、顎の先や、髪の毛の先までが揺れていた。足の力で立っているのではなく、ただ足の裏が張り付いたまま動けなくなっているだけだった。怖い、と感じた。あなたが死んでから、もう感じることはないと思っていた感情だった。怖いと感じるためには、私が私にとって失われてはいけないと、認めていなくてはならない。それが今現実として存在していることが、心から怖かった。
十年後、私は再び死ななくてはならないのに。
その言葉が目の上をぐるりと回って、しっかりとその文字を理解した。私は、今度こそ立っていられなくなった。
死ななくてはならない。
その言葉が、正確なものならば、義務として感じているということだ。そんなことがあるはずがない。そう言い含めようと口を開いてみたが、一度確かに網膜に写った文字列は眼球を抉り出したとしても消えることはない。
私はあなたの残した本を手に取った。
夕暮れの部屋の中はクーラーのおかげでゆるゆると涼しかった。
住み慣れはじめた昔の自分の部屋は、今では、穏やかに私を受け入れてくれていた。ベッドに座り、壁に背を預けて私は本を開いた。     
あなたがよく読んでいたこの本は、擦れて角が丸まっていた。
この詩を書いた詩人を、私は知らない。調べようと思ったことはあるが、結局放り出したままで、その衝動が戻ってくることはなかった。少しずつ褪せていく緑。あなたの手が、この本の表紙を撫でていた場面を私は何度も見た。あなたを訪ねていったとき、あなたは寝ているか、本を読んでいることが多かった。そしてその時あなたの手にあるのは、たいていがこの本だった。
これが一篇の詩でできた本であることそして、あなたがとても大切にしていた本だということが私の知っているすべてだった。
 私が何度も読み返した本は、この詩だけだった。今まで楽しみで本を読んでこなかった私は、同じ本を何度も読んだことがなかった。はじめて読むという求心力がなくなれば、嵐の音が大きくなってしまう。そのうち音は、しっかりとした暴風や冷たい雨の姿を現し、そして私は嵐の最中へと放り出されることになる。だからバランスが大事だった。物語に起伏は少しあればいい。主人公が男でも女でも、若くても老いていてもかまわなかった。ただ、はずれを引いてしまったと感じる本はあった。それは愛を失った人物が新たな愛を得て生きていくという内容だったときだ。
 私は、緑の本を譲り受けてからしばらくの間は毎晩枕元に置いて本を手で撫でるばかりで、開くことはできなかった。この本は、あなたが開く物で、私のものだという気持ちには、なかなかなれなかった。それが何故手に取って、そのページを捲る気持ちになったのか。
 それは後輩の家で最初に借りた本が、思い出されたからだ。主人公は壊れたと思った自分自身の目で世界をもう一度見た時、その姿は今まで認識していたものとは全く違っていた。そのことを混乱のなかで受諾し、だからこそもう一度破壊のはじまりに立ち返ろうと思った。そして出会う、自分の原点に。それがどんな姿にうつったのか。
 それを読んだあと、私はもう一度この詩を読みたくなった。あなたが私へ残してくれた意味を、知りたくなったのだ。あなたが何を思っていたのか。私を考えてくれた時間の結実が、この一冊のなかに染みこんでいるのではないか。そう考えたら、開かずには入れなかった。
 そうして寝る前の時間を、この詩と過ごすようになった。ベッドの上で、涙が止まらなくなった。どうしてやればいいのか分からないまま、私は本を撫でた。拾える言葉を震える口先に乗せ、一ページ一ページ捲っていった。そうして最後の一音をそっと放ってしまうと、全ての感覚が解放されたような気持ちになった。涙でべしゃべしゃの頬を拭い、そんな私をなんだかおかしく感じて笑いがこみ上げた。喉を震わせる笑いに、私は希望の古い紐を切り落としていた。
 そんな夜を繰り返し、ゆっくりと涙は穏やかになっていった。そうなって今度はもっとこの本に触れていたくなった。学校がある時は行く前に、帰り着いてすぐに、やるべきことをやってしまったあとに、手は素早く伸びて、涙を流しながら読み続けた。
 あなたがどうしてこれを残したのか。考えることを私は途中で放り出してしまった。私はあなたを選んだからだ。このまま生きて、いったいあなたのいない世界を生きていくことの意味は何だろうか。あなたが望む十年のその先の日々は、私にはあまりにも苦痛だった。終わりが提示されない苦しみは、罰でしかない。それなら、私の罪は何だったというのだろう。
また涙が流れた。一筋流れ、後を追って次が、そしてすぐに次が流れていった。透明なこの液体にいったい何が託されているのだろう。こんな小さな一粒に、途方もない繰り返しの後悔と、それを刺し貫く決定が、共に葬られている。落ちた涙が見えない屍の山にまたなっていった。



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