余情 13 〈小説〉
高校という場所は、刺激がコントロールされた場所だと思う。はじめてここに入ってきた人間は、その身の柔らかさが故に傷つき、打ち震え、その質量を呑み込む度に広がる水面の中に、新しい自身に出会う。けれど、二度目の水面には小さな小波が立つばかりで、ただ退屈な日々だった。
明るい、埃っぽい春の日差しに目を細める。
二年生へと進級した。世界は未だ去年末からの凶事の後始末と、皆の心に植え付けられた恐怖の種の摘み取り作業に手を休めることが出来ずにいた。それでも、いや、だからこそ、この柔らかい入れ物のなかのような季節に、固く握っていた指の力を抜かずにはいられないようでもある。肩の力がぎこちなく落ちる。そんな瞬間が訪れているのかもしれない。意味も無く、華やぐ。その心の動きに、多くの人が縋らずにはいられないのだ。
「おはよー」
前の席の少女からの挨拶に、同じ音を返しながら、頬を引き上げる。上げすぎないように気を付けながら、喉に管を通す。
ひとしきり笑い合ったら、彼女は私よりも話のあう、他の少女のもとへと向かっていく。そしてまた静かに私に下りた帳は薄い。
溜息をこぼしそうになるのを、頬杖をついてやり過ごす。窓の方へ顔をむけてみるが、穏やかな日差しに眩しいほどに青い木々の葉が揺れるばかりだ。幾人が窓の下を通り過ぎていくけれど、顔は誰ひとりとして判別することができなかった。何もしなくていい。短い朝の風景が、どこかドラマのなかのように描かれていた。たしかに私はこの風景のなかを一度歩いたはずなのに、その記憶自体が映像体験の一つだったかのように心許なかった。その中に放り出された私は、無防備で、なのに蓄積された記憶のために、ここに埋もれることもできない。高校生だった自分の、クラスも、出席番号も、同級生の名前も、何もかもがおかしな手触りのものに変質していた。
ここにあるべきなのは、私の意識ではなかったはずだという意識が、私の感覚に不純な膜を作り出しているのだ。
そうやって風景を目の上に流しているうちに、時間は過ぎていった。先生がやってきて、号令が掛かり、私は自動的な動きで教科書やノートを広げる。
十年前。私は必死だった。内面の嵐はいつまでも荒れ狂い、どの瞬間もあなたを追いかけたい衝動が暴れ回った。それを羽交い締めにし、触れる部分の全てを傷まみれにしながら、あなたを一瞬も思わないでいることは裏切りだと信じた。血が噴き出さないのが不思議なくらい、私はあなたを想った。あなたを決して過去にしない。あなたをけして思い出したりなんてしないように、そばにその線をなぞり続けた。この線が空間に刻まれて、いつかはあなたの形が浮かび上がればいいと思っていた。
あなたが言った、生きることをしなくてはいけなかった。私は、あなたを想うことが、この嵐を強めると分かっていながら、黙り込んでその嵐に耐えることこそが、あなたへの忠誠だった。
その実、踏み砕かれる全ての瞬間が、私の示せるあなたへの抗議だった。
「先輩って、いつも心ここにあらずですね」
図書室で、一つ席をあけて座っていた後輩が言った。私は開いた本の文字に目を落としたまま、「そう?」と返した。
「そうですよ」
彼女は力強く頷いて、まだ私の顔を見ていた。
「だって本当は、本だってそんなに好きじゃないですよね」
「好きよ。だからこうして放課後まで図書室にいるんでしょ」
「言い方を間違えました」
後輩は顔だけではなく、椅子を僅かに引いて、体ごと私のほうへと向けて言った。
「その本、そんなに好きじゃないですよね」
細くてきれいな指先が向けられていた。私の開いている本の、表紙の角に触れるかどうか。空気が押されれば、私の本を持つ手が揺れてしまっただろう。透明な光を集めたその小さな爪先は、純粋や、白が似合う。細く、滑らかに整えられているのに、そこには地のものの良さが際立っていた。彼女の健やかさが滲み現れている。
この後輩は、何故かこうして、私に関りにやってくるのだ。
「そうかもね」
たしかにこの本が取り立てて好きだとも、面白いとも思ってはいなかった。目に文字が入る。文章がくみ取れる。それが頭の中で組み替えられて、流れていくと時間が消費されていく。それが今の私には大切なことだった。
「私、この作者さんだったら、おすすめがあります。そっちを読んでください」
「どうして?」
私も諦めて彼女の顔を見つめた。後輩はやっとぶつかった目に、嬉しそうにはしゃいだ。
「私、その作者さん大好きなんです。その本より先に読むことをおすすめする本があります」
可愛らしい少女の声からはかけ離れている熱が、彼女の目にはあった。
彼女は耳の下で切りそろえた真っ直ぐな黒髪を持っていた。髪の色に似て、色素の濃い目が、丸く顔の中で光っていた。それが幼そうな口元と相まって、実際の年齢よりも少し下に見える。細い首筋が、紺色の制服の襟に映えていた。
図書館の窓際は明るく、背中があたたかい。
彼女の髪の毛に落ちる光が、あなたの髪に落ちた反応と、とても似ていた。
「先輩、聞いてますか」
「聞いてるよ。じゃあその本も読むから、この本を読み終わるまで静かにしていてくれる?」
「その本より先に読んでください」
「もうすぐ読み終わるけど」
「それじゃ駄目です。その本を読み終わる前に、私の推す本を読んでください」
「そんなに変わらないと思うけど」
「絶対変わります。本は、そりゃ好きな順番に読めばいいものですけど、一度その二冊を読んでる私からすると、絶対、私のおすすめの本を読んでからの方が響くものがあります」
彼女はそう言うと、私から本を取り上げて机に置いた。目がこの本を触らないように言っている。私が仕方なく頷くのを見届けて、彼女は目当ての本を探しに行った。
目の前に置かれた本を、また読むことも考えたけれど、彼女の目を思い出すとその手は止まってしまった。
人が多いわけではない図書室。私を入れても片手に届く人数しかいない。そのなかで本を読んでいるのは更に少ない人数だった。クラブ活動ではなく、放課後に解放されている場所。勉学に励む人間は、少し離れたところにある図書館のほうへ流れてしまう。蔵書の数が違う上に、大きな勉強室があるからだ。だからここにやってくる生徒というのは、部活動には参加せず、勉強にもそこまで力を入れる気はなく、だけれどただ家に帰るのも気が進まないという人間が多い。そんな人間同士が接点を持ちたがることは珍しく、彼女がやってくる前はここはもっと静かな場所だった。
彼女は、ここに集まる生徒の中では特殊な人間だった。本当に本が好きな人間だ。はじめて話をしたのも、同じ本の前で顔を合わせたことからだった。彼女はもう数冊の本を腕に抱えていて、だからその本は私に譲ると言った。だけどその本も早く読みたいから、読み終わったら自分に必ず声を掛けて欲しいと言った。私はそれに同意し、その日はそのまま別々の席に座った。
それがこうなったのは、何故だったのか。
彼女は、私の過去には存在しない人間だった。いや、世界には存在していたのだろうけれど、私との接点はなかった。私は一度目のこの時期を、ほとんど家と図書館で過ごした。学校での時間は誰の顔も朧気なまま、張り付けた顔でやり過ごしていた。誰の声も聞いてはいなかった。誰の声を聞いても、聞こえていなかった、というべきかもしれない。あなたのことを、考えないように考え、見えない体の線を空気に刻み続けた。けれど、けしてあなたが死んだことを、塗り替えようとは思わなかった。あなたはこの世界のどこかに生まれ変わっているとか、天国で見守ってくれているとか、もしかしたら死んだことが嘘や夢だったのではないか、とか。思い描きたくなる心を捩り潰して、染み一つ憎む気持ちで、消してきた。
あなたは、死んだのだ。だから、私は十年を生きて死ぬ。そう呪文を繰り返して、希望のように大切に生きていた。
その結果が、この時間の繰り返しなのだから、気持ちが果ててしまっていることも、しょうがない気がした。
「先輩」
彼女の方へ顔を上げると、その手には何も抱えられてはいなかった。目でそれを問うと、彼女は大きく口角を上げて笑った。
「目当ての本が借りられていまして」
「そっか、じゃあしょうがないから、この本を借りて帰るわ」
「いえ」
彼女は素早く、本を取ろうとした私の手を取った。それを自分の方へ引っ張る。目が、同じように光って私を見ていた。
「私、その本持ってるんです。お貸ししますのでどうぞ家に寄っていってください」
「でも」
「本、読む分が必要ですよね?」
彼女には、私は本を読むけれど知識はないこと、家には誰も読書が趣味の人間がいないこと、だから私の本棚には殆ど本は置かれていないことを話していた。だから私はここで一冊必ず借りていくのだと。彼女は、いつの間にか、空いている手で私が取ろうとした本を持っていた。
「大丈夫です。この本も、ちゃんとお貸ししますから」
私には時間がある。再びの十年の時間が。
後輩は光の宿った目で、私が折れて返事を返すのを待っていた。その光を消すことや、誤魔化すことは容易ではないだろう。私は諦めたように席を立ち、最後のあがきだと思って口を開いた。
「あまり長居はしないから」
彼女は大きな声で「はい」といったので、私たちは早々に図書室を出ることになった。
彼女の家はいたって普通の一軒家だった。二階建て。駐車スペースは一台分。灰色の屋根は平坦で、全体に四角く、壁の色は屋根よりも薄い灰色だった。私が感想を頭の中で組み立てている間に、彼女は鍵を取り出し素早く鍵穴へと差し込んだ。鍵の開く音の前で、後輩は子供のように笑って私を見た。
「先輩が少しでも本が好きだったら、私の家はとっても居心地がいいですよ」
そう言いながら彼女が開いた先には、私が見たことがない玄関の使い方があった。靴の収納棚は下半分だけで、天井まである残りの棚には本が並べられていた。さっと書名を読んでいっても、話題の小説から国外文学、エッセイや詩集、ビジネス書までが分類されて置かれていた。五段ある棚を見上げていた私の手を、彼女は引いた。靴を揃える暇もなく、中に引っ張り込まれた私は、家のあっちこっちに置かれた棚に驚いた。そこには例外なく本が詰まっていて、床に積み上げられてはいなかったが、あまりにもいたる所に本があるので、私はその量に圧倒された。一度目の私の人生が、あまりに物を持たないように生きたために、こうして生活を彩るどころか、ものが日々を浸食している様子を見ると、ただただ純粋な驚きが目を開かせた。
「うちはお母さんも、お父さんも、兄も私も本が好きなんです。みんなで手分けして買ってくるから家中に本棚を置くはめになってるんです」
「すごいね。でも本ってこの量になるとなんだか生き物みたい」
「ちょっと怖いって言う人もいますよ」
彼女は先に階段を上がりながら言った。
「でも、私にとって家の中の本は、妖精とか、精霊とか、なんだか声も姿も見えないけど、そばにいてくれるものみたいな。そんな存在なんです」
二階に上がる途中にも本棚があり、壁にも小さな棚があっちこっちに取り付けられていた。
「この壁の棚、可愛いでしょう。私が自分で取り付けたものです」
「じゃあ置いてある本も?」
「そうです。すぐに手に取れるから、よく読み返す作家さんの本を置いてます。お兄ちゃんには危ないからあんまり付けるなって言われてるんですけど、お兄ちゃんだって自分の部屋の本棚、市販のものを自分で増築して、自作の天井までの本棚で壁を埋めてるんですよ。もう地震がきたら埋まりますね」
彼女の部屋のドアには、クマが本を開いた姿が描かれた絵が掛かっていた。
「どうぞ」
そういって先に通された部屋の中は、今通ってきた家の中と比べると、色の多い構成になっていた。ベージュのカーテンには薄桃色の花弁が刺繍されていた。窓際には小さな人形が並べられ、細かな細工の小物入れや、写真立てが置かれている。背の高い本棚が二つ壁を隠し、その他は三段の棚がいくつか並べられていた。家の中の本棚が木目調のものだったのに対して、彼女の部屋の本棚は、背の高い物は白く、あとの背の低い本棚は外側だけ白色で、内側は青やピンクが貼ってある。そこに並べられた本の背表紙がまた、様々に色を飾られていて、とてもカラフルだった。物が多いけれど、きちんと置かれる場所が決まっていて、騒がしい印象ではなかった。
床に置かれた大きなクッションを勧められて、私は先に座った。
彼女はすぐに、目当ての本の棚の前に立った。
「こんなに本があると、同じ本を買ってきてしまったりはしないの」
「うーん。うちは、しょっちゅう本の話をするんですけど、その時にこの本を買うっていう宣言がされるんです。誕生日も、一人に一冊好きな本が買ってもらえるシステムだし。だから、みんなが買う予定の本を知ってて、買う前には家族に連絡して、持ってないか聞いてからってルールがあるんで、ダブりはほぼありませんね」
「徹底してるのね」
「はい。本はすごく高い物じゃないけど、こんな人数で買ってるから置き場所にはいつも困ってるんです。増やすにも限度があるから」
「いっそ図書館とかを利用したらいいんじゃないの」
「それじゃあ今日みたいな日に、こうして先輩に本を貸すこともできないでしょう」
「だから私は、あの本から読んでもよかったのに」
後輩は私の前に座り、赤い表紙の本を差し出した。その本は大切にされているが、確かによく読まれた本だった。
彼女は、そばに置かれていたウサギのぬいぐるみを抱え、楽しそうに笑った。
「先輩が、その作者さんのことを好きになると嬉しいです」
「期待に添えるかは分からないけど、ありがとう」
「お茶いれてくるので、ちょっと読んで帰ってください」
「いや、いいよ。帰ってから読むから」
「せっかく家までてくれたんですから、もう少し居てください」
「いいって、言ってるのに」
「先輩って、なんだかんだお願いするときいてくれるから大好きです」
彼女は立ち上がってそう言い、階下へ降りて行った。彼女が居なくなっても、彼女の気配がこの部屋には残っている。色がたくさんまき散らされているのに、それが一つの物を描いているような。ばらばらのものを引き寄せて一つの形に保っているような、そんな様子なのだ。
たしかに、彼女の言う通り、彼女の言葉を覆すことは、私には難しいように思えた。ただ単に私が、もうどうでもいいと考えているからかもしれないけれど。
あなたが死んだ、これからの時間を少しでもはやく進めるためには、どうしたらいいのだろうか。そんなことばかりに頭を働かせていた。
軽い足音が上がってくるのが聞こえた。
彼女は器用に、両手が塞がったままドアを開けて入ってきた。
手にはお盆があり、それを床へと下ろす。大きなポットと砂糖、牛乳の入ったコップ、金の華奢なスプーン、大きめのマグカップが二つ。
「先輩、紅茶はどうやって飲むのが好きですか」
彼女は自分の方へ砂糖を大盛りで二杯、そこへポットから紅茶を注いでいく。
「砂糖はなしで、ミルクだけかな」
「あ、すみません、これ牛乳じゃないんです」
彼女は白い液体が入ったコップを持ち上げた。たしかによく見ると牛乳の色より黄色味が混じっているようだった。
「これ、豆乳です。だからミルクティーじゃなくて、ソイティーになります」
「はじめて飲む」
「おいしいですよ。あっさりして」
言いながら私のマグカップを手に取り、さっきと同じように紅茶を注いでいく。そこにそっと落とされた白が、色をやさしくしていった。
「はい、どうぞ」
彼女は私にマグカップを寄越し、嬉しそうな顔で自分の分のマグカップを持ち上げた。そして乾杯をするように、その端を小さく私の分のカップの縁へと小さな音を立ててぶつけた。手の中で揺れたまろい色の表面で、私もゆれる。
「ゆっくりしていってくださいね」
彼女がおいしそうに飲むのにつられて、私もソイティーに口を付けた。たしかにそれは、なんだか土に近い甘さがある飲み物だった。
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