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私の薄め方

二〇〇九年四月二八日に九十歳で亡くなった杉﨑恒夫の『パン屋のパンセ』(六花書林)が売れている。今年(2010年)四月二八日の発行以来、既に四刷目に入ったという。
杉﨑の歌を読んで気づくのは「私の薄め方」の上手さである。

噴水の立ち上がりざまに見えているあれは噴水のくるぶしです
砂時計のあれは砂ではありません無数の0がこぼれているのよ

杉﨑の歌の魅力は普段の何気ない風景に異世界を見せてくれる所だ。さて引用歌。ここで面白いのは、ナレーターたる語り手の「私」はいるが、主人公たる「私」の姿が見あたらない点だ。普通なら作中に直接登場しなくとも、対象を見つめる「私」の姿が感じられる。写生歌はその好例だろう。だが杉﨑の歌では異世界をうつす映像に、杉﨑の優しいナレーションの声があるのみである。
では次にこのような歌はどうだろう。

宇宙基地を宇宙墓地と誤読する老眼のせいとばかりは言えぬ
ブドウぱんのどこを切っても均等なブドウのような愛はいらない

ここで表現された「私」の思いは、日常多くの人に通底する気分を炙り出した趣だ。換言すれば作者の感覚がそのまま一般の感覚と通じ合い、「私性」と「無名性」がコインの裏表になった構造だ。これは川柳の古典である『誹風柳多留』とどこか親和性がある。〈相性は聞きたし年は隠したし〉という句は世間の思いを掬い取った一行詩であり、それが読者に共感を与える。

以上杉﨑恒夫の歌を引いてそこに見られる「私の姿」と「私の思い」の構造を見た。誤解のないように言っておくと、杉﨑作品の特徴が「私」の薄められた点にある訳ではない。紹介できたのは杉﨑短歌のほんの一面だ。それにしても一九一九年生まれの歌人が、このような「私」の立ち位置を獲得したのは興味深い。杉﨑は長らく国立天文台に勤務していたのだが、宇宙に近しい日常が杉﨑の「私性」に影響を与えたのか。
短歌は「私性の文学」といわれてきた。しかし「私性」はバランス次第で共感にも独善にも傾く。そのように考えるとき、杉﨑のような「私の薄め方」が、何らかのヒントを与えてくれる気がするのである。

初出 「短歌新聞」2010年12月号・新人立論
※一部加筆修正しました