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【絵本・児童書】『いちごばたけの ちいさなおばあさん』『ごろごろ にゃーん』『ぼくのくれよん』を考える――大きくって、小さいの

主文

ある春先の夜のことである。
私は大きなイチゴを洗っていた。それは見事な頂き物で、真っ赤に色づきツヤツヤしている。緑のりっぱなヘタの根元からは、長くしっかりした軸がのびている。

なんて大きなイチゴ!そこで私は一つの物語を思い出した。
いちごばたけの ちいさなおばあさん、である。

この話は、いちごに赤色をつけることを生業なりわいとする、小人のおばあさんが主人公だ。長い冬の終わり、まだ春の声も聞かぬと思っていたある夜が明けると、奇妙に空気が生暖かく、おばあさんが不審に思って外へ出るところから物語が始まる。

まだまだ芽も出るか、という時期なのに、青々とした葉を茂らせているいちごの苗に、おばあさんは仰け反るほど驚いて、いちごを赤く染めるための準備を始めるのだが、おばあさんの手仕事では追いつかないほどにいちごの成長が早い。
おばあさんは地下水を汲み、日光に当て、色水の支度をする。寝る間も惜しんで働くのだが、いちごの苗はあっという間に蕾をつけ、白い花を咲かせ、そしてついに青い実が育ち始める。

急がなけりゃ、急がなけりゃ!

おばあさんの焦る気持ちがひしひしと伝わってきて、物語が進むにつれ、胸が締めつけられるほどである。


目の前にあるイチゴは、まさにおばあさんのいちごだった。大きさが、特にそうだった。絵本の中のおばあさんは両手をいっぱいに広げてその実りを抱く。そのいちごがとてもとても大きかったから。

おばあさんのいちごだ、間違いない、だって、あの絵本の中でいちごはどれもほんとうに見事に大きくって、少なく見積もっても6-7センチはあったもの。

そう考えて、私はハッとなった。

絵本の中のいちごは6-7センチ。そう思い込む理由はどこにあったのだろう。


写真を見て想像していたものについて、現物が目の前に現れたとき、その大きさにぎょっとしてしまうことがある。

ある喫茶店に入った時のことだ。
今のお腹に丁度いい、と思って頼んだフィッシュバーガーが、フライパンサイズで出てきたときは、この先どうしたらいいのか途方にくれた。
そういえば、ここは巷に噂の喫茶店で、とにかくいろいろメガサイズ、と思い出したときには、もう遅い。
バンズの直径が秋のお月さまみたいにでっかいなんて、誰が思うだろう。

メニューの写真などアテにならない。
超巨大バーガーの実物大の写真が載っていたって、よしんばその隣にマッチ箱が並べてあったとしても、メニューの写真のバーガーは私の頭の中で、過去何十年か蓄積してきた記憶のために、通常サイズに変換されてしまうのである。


『ぼくのくれよん』という長新太さんの作品は、ぞうさんが、自分専用のでっかいクレヨンで絵を描く、非・現実的でありながら奇妙に現実感のある物語だ。

この読者を空想と現実の不思議な狭間に落っことす技巧は、もちろん意図的に行われているのに違いないけれど、つまり、ページを開いたのっけから、納得いかない、大きいクレヨンだ、と、ネコと対比させて示しているのだけれど、私にはどうしてもどうしてもクレヨンは原寸大、ネコの方が小さいように思えてしまう。

困ったな、どうしようとページを進めてみても、この「ネコ<クレヨン=6.0センチ原寸大」からは逃れられない。

作者の、くれよんが大きいのだ、という言語による主張に則って、先頭のページに戻り、もう一度眺め直すことで、自分に生じてしまったクレヨンの大きさの観念を覆そうと試みる、が、どんなに首を横に傾けたり、絵本の天地ひっくり返してみたりしても、無駄だ。この最初のページ、クレヨンと対比させられたネコは、ネズミのように小さく、ちょこんと手のひらの上に乗るくらいの大きさしかない。


ちょっと、待った。

長新太さんの作品で、大きさが腑に落ちなくって悩み抜いた話をそういえば私は覚えている。
『ごろごろにゃーん』。似通った顔のネコたちが、飛行機に乗って空を飛ぶ、一等シュールな絵本である。

ネコたちは飛行機の窓からいつもこちらを見ていて、野を超え山を越え海を渡り旅をする。
途中、クジラとすれ違ったり、お魚を釣ったりするのだが、いちいち対象物の大きさの辻褄が「現実のそれと折り合っていない」のだ。

ページをめくりネコとともに旅をゆけばゆくほど。
ずり落ちそうになるほど、自身の感覚がなんだか「変」になっていくのである。


いちごばたけのおばあさんの全長が、作者によって何センチに設定されているのか。
これを正確に把握できるのは、物語の終盤である。

あれほど手塩にかけたのに。積雪の下に消えてしまったいちごを嘆き、雪の中、ウサギの目の前で、おばあさんは立ったまま泣く、おばあさんは小さいながらもリアルな八頭身、ウサギがこれまた写実的で、きちんと奥行きのある真面目なウサギだ。

想像するにこのシーンだろう、幼い頃の私はおそらく、このワンシーン、このウサギの写実性ゆえに、いちごの……いや違った、ちいさなおばあさんの、現実的大きさを捉えたのだった。

ウサギこそが、現実の世界と絵本の虚構とをつなぐ、みごとなスケールだったのである。


執筆者がひとつの物語の中で文体を一貫させるように、絵本の中でも大小のきまりは基本作中において統一される。『ぐりとぐら』、『ゆっくりくまさん』、『だるまちゃんとてんぐちゃん』、他にもいろいろ。

そこを曖昧にすると、読者が混乱してしまうから。なのに長新太さんは、まさにそこをねらいうちしてくるのだ。


ごろごろ にゃーんと空を飛ぶ飛行機は、私たちに絶対的な「異」和感を運んでくる。だって、本物の飛行機のそばを飛ぶ時のネコのサイズが奇妙だし、大群の犬に吠えられる時の大きさも変だ。

一番困ったのは、物語の終盤、にゅうっと出てきた左手に対して、ネコが20匹ほども搭乗した飛行機の大きさが、イワシほどしかなかったことだ、幼かった私もさすがに混乱した。

イワシの大きさの飛行機???

ってことは、中にいるネコたちは、鉛筆のお尻についているちびた消しゴムの大きさくらいしかない。ネコって、そんな小さな生き物だったっけ?

そうして今まさにこの瞬間、やっと思い至ったのである。

違う、この手が巨大なのか?

――そうだったのか。しまった、やられた……!(?)

私は幼い子どもの頃すでに、このリアルに描かれた手の方を、大きさの基準と認識していて、それをこの今現在まで気付かずにいたというわけだったのだ。

ここでやっと『ぼくのくれよん』の絵本に戻るのだけれど、つまり、特に大人はリアルに描かれた方の大きさを、つい信じてしまうために起こるのだと思うのだけれど、だって、『ぼくのくれよん』を描いた長新太さんの絵を見ればわかる、ネコよりもクレヨンの方が断然リアルだ、写実的だ、で、落書きのようなネコは、嘘ぴょんになってしまって、私の頭の中から、非・現実の存在に追いやられてしまう、土俵に乗った瞬間、あっという間に。

どんなに頭をひねっても、顔をナナメに傾けても、絵本をあちこちしてみても。この認知からは逃れられない。

たとえ最愛の恋人にささやかれても。
くれよんが大きい、というコトバだけでは、一度五感で掴んだ感覚はくつがえせない。言葉とは、なんと弱いものだろう!

しかし、この長新太さんの絵本の凄味はここで終わらない。

何しろ「絵本」なのだ!

本好きなお母さんだと、自分の子がまだあぶう﹅﹅﹅、という赤ちゃんのころから絵本を見せる。

すると、どうなってしまうのか???

イワシなど知らない子どもに?ネコを見たことがなかったら?

この物語は、ものの大きさの学びの少ない幼子たち、発達のごく初期段階にある赤ん坊たちに見せると、全く想定外の作品になる。

発達とともに、ヒトが身の内に形成させる、文化・宗教・社会・その他身体的体験から学んだ学問から何から、あらゆる観念に縛られない彼らの絵本の捉え方は、おそらく私たちの想像をはるかに逸脱したものに違いない。

自在に描かれるキャンパスの上の創造物を丸ごと偽りなく捉える。一体それは、どんな世界だろう?

長新太さんは人間の培い培われる認知と観念は、もともと不確か極まりないシロモノで、粘土のようにこねくり回せる、と確信しているのは間違いない。

それで、大人と子供が同時に読む、という珍しくもなくならない媒体、絵本というメディアを最大限に活用する。

彼の作品に出会うたび、私はぐるぐるする。酔っ払ったようになってしまう。

修正しようとするのは愚かなことだ。
いっそ、自分の既成概念を覆されまいと抵抗しない方がいいのかもしれない。自律神経を鍛錬するように観念の固定化からの解放を鍛錬する。あるいはその拘束を知り、認知の不自由を理解する。


『ごろごろ にゃーん』の飛行機と、それに乗っているネコたちは、もともと伸縮性で、伸びたり縮んだりしながら空を飛ぶ。途中巨大なアインシュタインの白黒写真が舌を出して横切っていく。空の大きな額縁は、得体の知れない重力に歪み、時空の間隙に落っこちている。

いちごばたけのおばあさんの大きさは、小さな小人さんのまま、終始一貫しているのだけれど。

と、思っていたら、読み聞かせの場で、幼い男の子が言うのである。

——大きなうさぎさんだねえ……。

(えっ……?)

いちごのおばあさん=ホモ・サピエンス原寸大ってこと???


もう、私は何も言えない。
あるがままに、これらの作品を、ぜひ。


まずはご一献

人が確かな現実と思い込む、その基盤となっているものは何であるのだろう。

器を持った時のその手触り、大きさの知覚、重量感、じわじわと移行してくる熱量は湯気の立ち取り落すほどの熱さだ。五感を通じて得られる感覚の総体。

かつては直接的であった情報伝達におけるエネルギーの交換が、別の何かに取って代わられていることはやむを得ない、ホモ・サピエンスが、絵を描き、刻みつけ記録するようになった頃から、少しずつ、少しずつ、技術を発達させながら、0と1になるまでに情報をやり取りする媒体を変容させ、拡散させ、時空を超え、人はそれらに対応してきた、が、ごく初期からすでに、確かな知恵を持って確実にコントロールするすべを誰も持たないということに、おそらく多くの人々が焦燥を感じながら、なすすべがないと感じている、それらはもはや新しい生命体であるかのように私たちのあずかり知らぬところで蠢いている。

彼らは意気揚々と私たちの手を離れ、気ままに行き来し自在に振る舞う。自由を手にいれたエヴァ 注1の輝く笑顔は、すでにそこここで発見できる、新時代の啓蟄を。

今や媒体は多岐にわたり、外界からやってくる虚と実の交錯する大量の情報に対して脳をフル稼働させながら、私たちはそのデータの集積を映像と捉え、音楽と捉え、本物と識別不可能なまでにすり替えられたそれらをもって、自らの脳を発達させ続けながら、ますます現実を遠く感じる。

誰かとともに交わした会話の記憶、かつて一人で読んだ本の記憶、文章だけでやり取りされた会話の記憶。
目の前で触れることも可能な視界、実写の映像、創作された映像。
自ら楽器を手にとり演奏する、声を上げ歌う、あるいは目の前で奏でられる旋律を聴く。ステレオから放たれるアナログの重低音、デジタルの重低音。
講義で学んだ学問、実技で習得した学問。机上の空論、虚学と実学。

実体験、実体験、仮想体験。仮想体験、仮想体験、実体験。

今や香りの情報も遠隔で再現されるものか。
ホログラムの映像に心震わされる生体の反応は実際に起こり、それは現実以外の何物でもない気がするけれど。どちらでもいいのか、どちらかはいけないのか。

今ここで背に当てられた手のひらの温かみは確かに感じる、しかしそれは、本当に?

イチゴ一粒、口に入れるという行為すら、別の何かに置き換えられている、という時代が来るだろうか。畏怖を感じるべきか?いずれ来たるすべての実存が虚構かもしれない世界に?

それでも私たちはこの世界で発達を続ける。

いちごばたけのおばあさんに、おおきないちごとともに与えられたのは、不安でも恐怖でもない、確かな安寧の記憶でもあるのだ。


さてご返盃

全てが夢かもしれない、夢ではなく自分がAIかもしれない、周りはすべて仮想かもしれない、自分こそが仮想の存在かもしれない。

大きいのか、小さいのか。確かなのか、不確かなのか。見ているものは絶対の質そのものか。目の前の現象に対してあなたが感じている感覚は、傍らの人々の感じている質それぞれと同等だとどうして言えようか。

ゼロイチの媒体は本当なのか、嘘なのか。はたまたそれらにすり替えられてはいけない理由がどこにあるのか?

そもそも私たちの脳内で日々認識され展開されている出来事は、現実そのものではないというのに。私たちこそが、物理の動力学に則ってケミカルにフィジカルに反応する、現象の総体でしかないというのに。

いつか、言葉や文字や現存の信号でない何かによって、質そのものを捉え、それを一体の意識で持って共有し伝達し理解し合う手段を、手中にできるだろうか?その日が来るまで、全てを有するいち存在となるまで、私たちは眠っているも同然なのか。ゼンマイ仕掛けの神の一撃、ゼウス・エクス・マキナ、その超越の結末。

全ては夢かもしれない、全ては、春の声もかそけきあの夜に始まった出来事だったのだ。



1)エヴァは『エクス・マキナ』(2014年のイギリスのSFスリラー映画)に登場する女性のアンドロイド。AIを超越した言語能力を持ち、有名企業で働くプログラマーの主人公ケイレブと面談を行う。
この映画は、ゼロイチが私たちに提示する虚実の交錯する中、主人公のみならず、映画を観る人々をも混沌へ誘う。エヴァの微笑みが、今この世界にあまねく行き渡っている現実を、落雷に打たれたがごとくに悟り、震撼を覚えずにはいられないという凄まじい映画。お勧めです。

参考資料
長新太. ゴロゴロにゃーん. (こどものとも絵本). 福音館書店, 1984.
長新太. ぼくのくれよん. (講談社の創作絵本). 講談社, 1993.
わたりむつこ(作). 中谷千代子(絵). いちごばたけの ちいさなおばあさん. (こどものとも絵本). 福音館書店, 1983.

他にも『マトリックス』、『攻殻機動隊』、『ANON アノン』などなど。映画も本も、キリがないのでしょうが……。
壮大に混乱してますが、もう少し参考図書を。

池谷裕二. 進化しすぎた脳. 講談社,2007.

中村哲之. 動物の錯視. (プリミエ・コレクション32).京都大学学術出版会, 2013.

松浦壮. 量子とはなんだろう. 講談社, 2020.

ヨシタケシンスケ. りんごかもしれない. ブロンズ新社, 2013.

ますます迷走します!


追記
どうか参考資料に辟易しないでください。中身がどんなものなのか、教えていただきたくて。正直に言って私にはどうにも手に負えないのです。絵本と映画と漫画以外、ほぼ、積読です。(平謝り)


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