【イタリア】【創作SF】『フクロウの夜』(『未題』 エピソード0) 誰の目にもふれることのない物語のはずだったが—
海辺の散歩者さん「ミミズクの沈黙、てのひらの目」に寄せて
このエピソードはフィクションです。
記載された内容は、実在する人物・団体・事件、
その他実際の固有名詞や現実の現象などとは一切関係ありません。
奇妙な夜だった。
つかもうとするとふっと消えるその映像は、白雲のようにとらえどころがなく、しかし確かにそこに見えるのだった。だが握り込むと消えてしまう。
何度試しても、実はない。
「ルノ、なんだそれ」
ハッと若者は我に返った。
そして左の手のひらを上にして開き、隠すふうもなく声の方に顔をかたむけ、たずねかえす。
「見えるのか?」
「見える。なんだ」
若者は正直に答える。
「なんだろうか、ときどき、こうなるんだ……最近」
「最近?」
「そう、いつからだったかな。たぶん彼女が死んでからだ。あの娘が」
2006年初秋、イタリア共和国、ネアロポリス市内。こぢんまりとしたアパルトメントの一室のリビング。華奢な若者と声の大きく厳つい体躯の男。室内には彼ら二人だけ。
手のひらの上にあるのは、左目である。人間の目ではない、フクロウの眼球だ。
なぜ左目なんだろう?と、若者は考えていた。
アルジェリアの言い伝えによれば、それは右目でなくてはならなかった。
そう、小学生のころの思い出だ。
SSSSSS
ルノが幼少期を暮らした家は、移民貧民窟に近かった。
アルジェリア出身の外国人労働者は失業率が高い。英仏独で移民規制が始まった1970年代後半以降、イタリアにやってくる移民は増えつづけていた。移民たちの継続的な就労は困難をきわめる。出身国による格差は歴然としていて、アルジェリアは職の安定しない移民排出国のひとつだった。
外国人労働者の失業はおのずと不法滞在者の増加につながる。
モロッコ、ユーゴスラビア、セネガル、チュニジアなどの出身者も、職にあぶれるものが多かった。不法滞在者は不法活動をするものたちの標的になりやすい。ヤミ労働に巻き込まれ、ヤミ経済の温床となる。正規の手続きのない労働者は社会的に守られない。問題は深刻だった。
さまざまな意見があったが、基本学校側は寛容をつらぬこうとしていた。不法滞在であろうとなかろうと、その事実が、子どもらから学びの権利をとりあげる理由になってはならない。
教師たちは必死だった。貧困層の生徒たちの様子に気をくばり、話し合い、ときに住まいへ訪問することもあった。それであのアルジェリアの少年は、かろうじて学校へ通えていたのだ。両親が本物の労働許可証を持っていないという噂は、本当のようだった。
いつも少し教室の仲間たちとの距離をとり、いつも疲れた様子をしたあの少年から、彼の国の言い伝えを聞いたのは、いつだったろう。
アルジェリアの少年は、手のひらを上に向け、じっと見つめていた。
SSSSSS
なにをみているのかと、ルノは少年にたずねた。アルジェリアの少年は常に、手のひらの上に、なにかあるかのように振るまう。不思議だった。
フクロウの目だ。と、少年はいった。「見えるといいんだけど。いつも考えるんだ。でも本当は女の子でないとダメなんだ」「フクロウの右目が、手のひらにやってくると、すべてを知ることができるんだよ……」
少年は最初、トリの目玉だ、と言ったのだ。異文化に好奇心をそそられたルノは昂揚し、もう少し詳しく教えてくれ、と頼んだ。
イタリア語、ネアロポリス語。渡伊して間のない少年は、まだ言葉が十分でなかった。身振り手振りを交え、終いには図鑑を持ってきて示してもらい、その生き物がフクロウだと分かったのだ。
本当のところアルジェリアの伝承では「ワシミミズク」なのだが、さすがに山ほどのフクロウ科の博物画の中で、どれがワシミミズクなのだか少年には分からなかった。羽角があればミミズクだが例外もある。
しかし、ルノは満足だった。
フクロウはヨーロッパにおいて賢者の象徴として扱われる。手のひらに、知恵者の目が現れるなんて最高にクールだ、と彼は思った。
SSSSSS
「右目のはずなんだけど……左目なんだ。そこが分からなくて」とルノはいい、少年時代の情景を思い出し微笑んだ。「フクロウの目なんだ」
「マリオのかと思ったぜ。お前が抉り出して、とっておいたのかと……まさかな」
「そんなふうに見えるのか?マリオの目に?」
「あいつ、そんな目をしてたろう?」
そうだろうか?いや、そうかもしれない。
マリオは色白で小柄で、サラサラの淡褐色の頭髪と、やわらかなものごし、さわやかな笑顔を持っていた。おどけた丸メガネに、きょときょとと首を動かすその様子は、まるで愛嬌のある白フクロウのようで、周囲の人間たちを朗らかにした。一方で彼の瞳は、その気さくな人柄とは別人のように遠く澄み渡っており、賢者のような達観があるのだった。
――なにもかも見通せるわけがない。でも、方法はある。
と、白フクロウの青年はいった。
――君は、確率を考えるだろう?僕だってそうさ。
マリオは理論物理学者だった。いや、だったらしい、というのが正しい。彼は姓名を変えていた。顔を整形し、声も指紋も元のものではなかった。非常に若く見えたが、もうとうの昔に30は超えたよ、と言っていた。
過去のことは誰も知らない、どのような経緯でイギリスへ渡り、なにを思ってその後イタリアへ流れてきたのか、ルノすら、正確なところは知らなかった。紹介者がそれらを詮索ないよう、Luno Giordano Cio Rayこと、ドン・チョレイチアに釘を刺したのだ。名をなくした青年の、安全のために。
SSSSSS
ルノはあの娘の死について考える。誰も彼に非があるとは言わない。だがどう考えても、自分があそこへ行ったから彼女は死んだのだ。
なにか止める手段があったろうか?そうならない方法が?何度繰り返しても、どのみちすじを試してみても、最後には同じ結末へたどり着く。彼女の死を回避することはできない。
益のない内省ほど始末の悪いものはないし、ルノにはすべきことが山ほどあった。彼女のことばかり考える時間はなく、実際そうすることもなかったが、検証を重ねる思考へ沈む夜もある。
そうしてふと気がつくと、左手の目に、見つめられているのだ。
「ああ!聞いたことがあるなあ。神秘の目だ。未来まで見通せるってんだろ?」
「そんなじゃない、これって戒めの目だよ。僕には」
「なに言ってんだ、ええ?」
陽光のあかるさだった。
「どっちだって、一緒だろ?なんか、違いでもある?」
「なるほど」
ルノは思わず笑った。「確かにな。そうかもしれない」
男はきわめて上手に対話をしていた。馬術の熟練者が巧妙に手綱を捌くように、その危険を回避していた。互いに、女性の死をおおごとに考えすぎないように。あれは十分すぎるほどやむを得ない事故なのだ。だが、本当にそうだろうか?
「俺には猛禽の目に、見えないな……マリオの目だ。予測の目、確率の目だ」
SSSSSS
それがやってくると、すべてを知れるのだ、とあの少年は言っていた。
必要としていたのだ。ギリギリの生活の中、毎日手のひらを見つめずにいられぬほどに。苦境から脱出するみちすじ、それを見通せる力を。
少年は暗闇の中、手探りで進む。
光が必要だった。辺りを照らすための光源が。それとも光はあって「彼が見えていないだけなのか?」
まだ子どもだ。自分になにが起きているのか、俯瞰的に社会をとらえる力は到底なかった。その知恵の目は、簡単には手にできないのかもしれなかった。
少年は気づかない。ひょっとすると学業こそが、彼にとって現状を打開する光源のひとつなのだ。
教師たちはその確かな力学を知っていた。せめて必要最低限でいい、なにがなんでも彼をクラスに引き留めなければならなかった。しかし、少年が尊厳を打ち砕かれ、生きる意欲を失い、知恵の目を見失っていることもまた十分やむを得なかった。
住まいの劣悪な環境は少年を疲弊させた。学びに光を見出すどころではない。
1990年代半ば、まだイタリアの移民政策は厳しくなる前だったが、警察に出くわし無許可を見逃してもらえなければそこでおしまい、よくて国外退去命令、最悪強制送還だ。
憲兵がくると、彼らは家の裏手を流れるドブ川に入り身を隠さなければならなかった。その次の日に、学校へゆき席につく。
南イタリアに位置する都市とはいえ、冬は身も凍る寒さだ。噛み付くように冷たい汚泥は悪臭とともに下着の中にまで入り込み、何日もその感触は消えなかった。
教師たちのしていることはもちろん間違っていない。ただ同時に別のものも必要なのだ。それを誰が与えられたろう?教師たちができることは限られている。幾多もいる貧困の少年少女たちに、毎日の十分な食事、暖かなベッド、不法滞在に怯えない生活を与えることは不可能だ。
社会協同組合による努力——例えば両親に各種ビザや労働許可証を取得させるための画策などは、簡単には功を奏しない。教会のバザーや慈善活動家たちによって集められた支援金は、しばしば不正に流され誰かの懐へ入ってしまう。八方塞がりだった。
SSSSSS
マリオはこう書き遺していた。
――答えにはならないが、道標ぐらいにはなるだろう。
白銀の髪に紛れ込ませたパウダーは、マリオが構築した特殊な独立型情報システムへのアクセスキーだ。ルノはまだそれを情報室のマンチーニ以外、組織の仲間たちに語っていない。
データを分類し、階層ごとの権限に応じて、構成員たちが瞬時に過不足なく情報共有できる仕組みを作り上げておきながら、ルノは、なぜ自分が上級幹部会に対して、マリオの置き土産の開示をためらっているのか、よくわからなかった。
――天体望遠鏡の技術が発達してゆくまで、宇宙は闇に包まれていただろう?
とマリオはいう。
――真っ暗だと思っていた世界が、ある日突然、そうではなかったとわかる。なんてたくさんの知らないことが、僕らにあるんだろう?
——光に電磁波に素粒子。重力波も時間の問題だ。手段があれば見える。そこは常に闇であるとは限らない、存在を確かめるための波や粒を当てられるかどうか、飛来するそれらを検出できるかどうか。すべては受け手側である僕らの能力にかかっている。
望遠鏡はどんどん進化する。光をとらえ、電波をとらえ。大気を避けて宇宙へ飛び出し観測を。
――ランタンと観測者がね、必要なんだ。検出のための技術と、それを受信し事象の理解につなぐ力の両方が。そこから得たひとつひとつが、縦横無尽に広がる知の基礎構造であり、第三の目に折り込まれてゆく膨大なデータの礎となる。事実を事実であると認め、解放の場所へ向かって歩むための。
アジア極東の国に、素粒子をつかまえて、世界の成り立ちを探る実験装置があるのを知ってるだろう?と言い、マリオはニコリとする。
――それは最小を探究する顕微鏡であり、最果てを覗き知る望遠鏡でもある。
――遠いソラの情報を集めて過去を観測し、未来を予測する。僕は宇宙のことは全然分からないけど、君やみんなと同じくらいには、ワクワクするよ。極小も極大も、まだ見ぬ知恵の宝庫なんだろうね。
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常に感情を表にださない若者の思考を、男が推し量るのは困難だった。
ルノはなにを考えている?あの娘のこと?それともマリオだろうか?
しばしば巡り合う死をすべて背負ってゆくのだとしたら、それは荷が重すぎる。
過剰に気にしてはいけない。男は友の気持ちを引き立てるために言う。
「あいつはよぉ……最期に俺に言ったぜ。
自分の望みを叶えるために、チョレイチアにきたんだって」
だから気にすんな、と言いたかったのだが、その声は、ほとんど若者の耳に届いていなかった。
彼は死を負う自らの宿命とは別のことを考えている。
我々は、暗闇の中にいるのだろうか?
マリオには、なにが見えていたのだろう?彼は、闇を照らすランタンを見つけ出そうとしていたのか、計算と、理論を使って?
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どんなに見つめても、あの少年の手のひらの上に、その目は現れなかった。
どうして?本当に必要としていたのは、彼だったろうに。
ルノは左手を開き、手のひらを見つめる。
自分には、なにか知るべきことがあるのだろうか?
(なぜ、右ではなく、左なのだ)
常世と現世がさまざまに交錯するヒトの儚い一生のなかで、ときおり死者たちの声が非常に近くなることがある。目の前の不可思議は、そんな奇日のあらわれなのかもしれなかった。
いつもならすぐに掻き消える投影が、今宵は消えない。
その左目は、手のひらから自分に向けて、ずっと視線を送りつづけている。
ときは2006年、秋のはじめ。
近く、マリオの提唱した超確率論の特殊解を利用した領域問題が、世界を大混乱に陥れることを、彼らはまだ知らない。
しかしそれは刻々と迫っている。
この若者は、肌のどこかでそれを感じ取っているのかもしれなかった。
秋の夜は長く、静寂がそれをさらに、永遠に留めるかのように包み込んでいる。
嵐の前の、静けさである。
エピソードはここまで。以下は舞台裏と謝辞になります。
よろしければこのあとぜひ、海辺の散歩者さんの記事を読みにお出かけください。
舞台裏と謝辞
――海辺の散歩者さんという驚き――
2005年を挟んで前後4-5年ずつ。イタリア共和国を舞台にした約9年間のSFが、ここ2-3年私の頭の中で広がっています。公開予定はありません。とんでもなく複雑に話が入り組み、てんで私の手に負えなくなってしまっているからです。
それはただ自分の楽しみのために、書きつづけられています。もともとnoteは別の目的で始めたので、それでよかったのです。
しかし、想定外のことが、先週の金曜日に起こりました。
すべては自分の空想ですが、この基盤があるところへ、海辺の散歩者さんの記事に出くわしたのです。
そして読み終えた後すぐに、記事と自作SFをベースにした5000文字ほどの、独立したひとつのエピソードが書き上がりました。そこで初めて私は気がつきました。
これ、投稿できるのでは…?
正味半時間ほどの急展開に困惑しつつ、私は迷ったすえ次の日の夜、海辺の散歩者さんに、記事に触発されて書いたちょっとした文章を、noteに公開しても良いかをたずねました。
***
海辺の散歩者さんの記事は、ヒトや自然界が複雑に織りなす、この世界のさまざまな現象への深い洞察に満ちています。
その視線はとても幅広くて、静かながらも鋭く、鋭くも包括の慈しみがあります。自らの体験を交互に重ねながら、想像と現実とを自在に行き来するその視点は、私から描き出すべきものを引き出す強い効力として作用しました。ひらめきを得たのは自分だけではないに違いありません。その驚きの効用は、ちょっとした奇跡のようにも感じます。
今回の自作SFのエピソードは、ちょうど一部と二部の境目、冒険活劇9年間のど真ん中あたり、登場人物たちが本格的に、奇妙な物理現象への謎解きに入ってゆく直前になります。
私の拙すぎる物語では、海辺の散歩者さんの記事の感動を語るには、とうてい足りないのですが、素晴らしい記事のちょっとした余興として、どなたかが楽しんでくださったら嬉しく思います。
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創作の公開を快く承諾してくださったこと、そして何より素晴らしい記事に。
海辺の散歩者さんへ、心からのお礼を申し上げます。ありがとうございました!
紹介を予定していた絵本が、今回のハプニングでひとつ後へ押されました。
大枠はできているのですが、仕上げに難航してます。
なんとか書き上げて近いうちに公開したいと思っています!