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夏の読書感想文 #2 アンソニー・ドーア『すべての見えない光』 藤井光 訳

この記事はアンソニー・ドーアの小説『すべての見えない光』の読書感想文です。小説内の言葉の引用、あらすじの紹介等、ネタバレになる要素があります。

タイトルから美しい小説というものがこの世にはたくさんある。私は直感的に読む本を選ぶタイプだから、タイトルが美しい、表紙の写真が美しい、装丁が美しい、という理由だけで手に取ってしまう。
アンソニー・ドーアの『すべての見えない光』はその三つの要件を満たす。見えない光、という言葉に「すべての」という語がついているのも読み手の想像を掻き立てるし、そもそも美しい言葉だ。おまけに表紙の写真はマグナムの写真家としてお馴染みのロバート・キャパ。モノクロの写真に、光を思わせる黄色のアクセントが映える。白黒の世界に射す一筋の光。一体これはどんな小説なんだろう。新潮クレストブックスにハズレは無いが、やはりこの小説も、私の人生のベストスリーに入るような大切な物語となるのであった。

物語は次のような物々しい言葉から始まる。「それは、夕暮れどきに、空から大量に降ってくる。風に乗って塁壁を越え、屋根の上で宙返りし、家と家が作る谷間に舞い落ちる。通り全体でビラが渦巻き、石畳の上で白く光る。町の住民への緊急通知、とそこには書かれている。ただちに市街の外に退去せよ」。そう、この小説の舞台は、戦時下のフランス、サン・マロだ。

主人公のうちのひとり、フランス人のマリー=ロールという少女は、目が見えない。しかし、博物館勤務の父のもと、盲目とは思えぬほど、色鮮やかで、光に満ちた日々を過ごしている。
もうひとりの主人公、ドイツ人のヴェルナー少年。孤児である彼は、ある日倉庫の裏にあるゴミの山を漁っていると、ラジオを見つける。このラジオが物語のキーとなってくる訳だが(二人を繋げたのはラジオの電波という、「目には見えない光」なのだ)、ヴェルナーはもちろん、そんなことなど知らない。
彼らは別の場所に暮らす、知らない者同士だ。戦時下においては、敵国同士ということになる。物語は、彼らの生活を行き来する形で進んでいく。そしておおかたの読み手の予想通り、彼らはそれぞれの場所で、それぞれの形で戦争に巻き込まれる。物語の終盤、彼らは一瞬邂逅し、そして離れていく。やがて戦争は終わる。この小説の簡単なあらましを説明するとしたら(他にもたくさんの語られるべきことがあるのだが)、こういうことになる。ただし、彼らの邂逅をただ単に「心温まるエピソード」として捉えられないのは、彼らを結びつけたのは紛れもなく、第二次世界大戦という残忍な歴史であるからだ。

しかしながら、この不穏な歴史背景にも関わらず、私はこの本に美しさや一握の光を感じずにいられない。たった一度の、瞬間的な邂逅。500ページを超えるこの長編小説の中で彼らが触れ合うのは、ほんの数ページだ。そこに美を見出してしまうのは何故だろうか。この小説はほとんどが、悲惨な戦争の描写ばかりなはずだ。それはやはり、人と人とが出会うというのは紛れもなく「奇跡」だからであろう。ラジオの電波を通して間接的に出会った彼らが、戦時下のフランスとナチスドイツという、敵対する関係であるはずの二人が、時空を越え国家という単位を越え、ただ一人ひとりの少年少女として出会えた奇跡。それは単なる「ボーイ・ミーツ・ガール」という言葉では語りきれない。

アンソニー・ドーアは何を書きたかったのか。それは歴史という大きな枠組みではなく、時代に翻弄された少年少女の、ささやかな心の機微なのではないか。戦争の凄惨さを伝える小説ではなく(もちろん、そもそも戦争というのは悲惨なものだから、悲惨な描写はふんだんに取り込まれる訳だが)、繊細に、懸命に、真っ直ぐに生きる人々の、小さな生涯なのではないだろうか。そういった意味で、この小説は戦争小説というジャンルに当てはまらない気がする。もし、そうジャンル分けされるとしても、これほどまでに詩的で美しい戦争小説がかつてあっただろうか。

さらに物語の最終盤、畳み掛けるように記された下記の言葉に、私は打ちのめされる。

「エティエンヌが語ってくれたように、ふたりのまわりで曲がっているが、ただし今では、彼が生きていたころの千倍もの電波が宙を飛び交っている。百万倍かもしれない。激流のようなメッセージのやり取り、潮のような携帯電話での会話や、テレビ番組や、Eメールが、街の地上と地下一面に張りめぐらされたファイバーとワイヤーのネットワークが、建物を抜け、地下鉄のトンネルにある送信機のあいだ、建物の屋上にあるアンテナのあいだ、携帯電話の送信装置を内蔵した街灯のあいだで弧を描き、カルフールや、エビアンや、トースターペストリーのCMが、宇宙に向けて信号で送られ、また地球に戻ってくる、『遅刻する』や『予約を取るほうがいい?』や『アボカドを買って』や『彼はなんて言ったの?』や、一万もの『きみがいなくてさびしい』や、五万もの『愛してる』、憎しみのメールや、予約確認や、マーケットの最新情報、宝石の宣伝やコーヒーの宣伝、家具の宣伝が人目につかず、迷路のようなパリの上空を行き交い、戦場や墓の上空を、アルデンヌの上空を、ライン川や、ベルギーや、デンマークの上空を、わたしたちが国家と呼ぶ、傷つき、つねに移ろう風景の上空を飛び交っている。だとすると、魂もそうした道を移動するかのかもしれないと信じるのは、それほど難しいことだろうか」

スピリチュアルな話でなく、電波という目には見えない「光」が我々の生活に根差し、飛び交っているのだとしたら、同じく目には見えない、これまでに死んでいっただれかの魂がこの世界を飛び交っているかもしれないと想像することは、不可能では無いはずだ。目には見えないからといって存在しないと決めつけてしまうのは、軽率すぎないか。そして、寂しすぎないか。目に見えないラジオの電波が、マリー=ロールとヴェルナーを結びつけたというのに。
戦争の歴史を知る人は日々刻々と減っていくが、我々のような戦争を知らない者たちも、戦死者や戦争に巻き込まれ死んでいった無数の市民たち、あるいは、その後遺症によって苦しみ死んでいった人々とともにあるはずだ。そんな私たちが、戦争と無関係で生きていけるはずがあるだろうか。良くも悪くも、私たちは無数の死屍累々とともに生きているのだ。私たちは、孤独でない。

この本を通して感じた余韻は、そっくりそのまま私のひとつの信念へと変わった。信仰と呼んでもいいのかもしれない。だから私は『すべての見えない光』という美しいタイトルを、初めて開催した自分の個展に引用した。私は出来るだけ、写真という、光をフィルムや印画紙に焼き付ける方法で、目には見えないはずの何かを捕らえたかった。それが我々一人ひとりが孤独でないことの証明となり、私を生かすからだ。

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