夏の読書感想文 #3 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『アメリカーナ』 くぼたのぞみ 訳
アディーチェ曰く、「弁解の余地のないオールド・ファッションなラブストーリーを書きたかった」のだという。まったくその通り、この小説は純度百パーセント、どこからどう見ても、恋愛小説だ。
この話の簡単なあらましを説明すると、主人公はイフェメル、そして、恋人のオビンゼ。二人はアディーチェと同じく、ナイジェリア人だ。高校時代に出会った彼らは急速に惹かれ合い、永遠の愛を誓う。大学進学の折、イフェメルはアメリカ行きのチャンスを掴む。まずはイフェメルがアメリカへ移住し、その後オビンゼが後を追う、という計画を立て、彼らは遠距離恋愛に突入する。イフェメルはアメリカで数々の困難に直面する。アメリカに行って初めて、彼女は「黒人」になったのだ。アメリカでの生活の中で彼女はある種うつ状態になってしまい、塞ぎ込んだ気持ちから、オビンゼと距離を置くようになってしまう。
一方のオビンゼは、ある理由から計画していたアメリカ行きが破綻してしまう。そこでまずイギリスに向かう。そこで待ち受けるのも数多の困難だ。イフェメルとの破局も経験する。様々な出来事が起き、結局彼は、ナイジェリアへと強制送還されることになる。ナイジェリアへ帰った彼はひょんなことから巨万の富を得、妻と子どもに恵まれ、安定した生活を手に入れる。
イフェメルはアメリカでの生活の中で、人種に関する問題を扱ったブログを始める。聡明で快活な彼女のブログはヒットし、彼女はそれで生計を立てられるようにまでなる。このようにイフェメルもアメリカでの生活を自分のものにするのだが、ふとした理由で、アメリカでの生活を捨て、ナイジェリアへ帰郷する。そこでオビンゼと再会し、彼らは…という完全なるメロドラマなのだが、このラブストーリーの中に含まれる、いくつもの「アディーチェ的」要素について触れたい。
まずは「アメリカ黒人」と「非アメリカ黒人」の問題。
イフェメルのブログのタイトルは「レイスティースあるいは非アメリカ黒人によるアメリカ黒人(以前はニグロとして知られた人たち)についてのさまざまな考察」。アメリカ黒人と非アメリカ黒人の違いについて説明できる人はそう多くはないのではないだろうか。つまり、アメリカ黒人というのはアフリカに出自を持つ「アメリカ人」のことで、非アメリカ黒人というのはイフェメルのようなアフリカに出自を持つが、「アメリカ人ではない」黒人のことを指す。この違いは一見些細なように見えて大きい。ナイジェリアからアメリカへやってきたイフェメルは、非アメリカ黒人の視点からブログを記す。例えばこうだ。「多くのアメリカ黒人が誇らしげに、自分には「インディアン」の血が混じっているという。ありがたいことに完全にニグロではない、という意味だ。自分たちが黒すぎることはないという意味なのだ(はっきりさせておくと、白人が黒いというときはギリシア人かイタリア人のことだけれど、黒人が黒いというときはグレイス・ジョーンズのことなのだ)。アメリカの黒人男性は、つきあう黒人女性が半分中国系とかチェロキーが少しとか、エキゾチック血が混じっているのが好きだ。しかし、アメリカ黒人が『明るい』と考えているのはなにかに注意して。こういう肌の『明るい』人たちは、非アメリカ黒人の国々では、たんに白いと呼ばれるだけなのだ。」
そして「人種のメタファーとしての髪」の問題。
物語は、アメリカに住むイフェメルが自らの髪を編んでもらいながら、過去を回想するシーンから始まる。彼女はナチュラルな縮れ毛を編み上げた髪型をしている。それと対比するような形で登場するのがバラク・オバマ元大統領夫人の、ミシェル・オバマだ。彼女の髪はストレートヘア。「黒人女性のなかには、アメリカ黒人も非アメリカ黒人も、ナチュラルヘアで人前に出るくらいなら通りを裸で走るほうがましだと思っている人がいる。その理由は、それがプロフェッショナルな感じではなく、洗練されていないからで、とにかく、ふつうではないとされるから、だよね(コメンテーターの方にお願い、髪を染めていない白人女性もおなじだなんていわないでね)。もしもあなたがナチュラルなニグロヘアであるときは、人はあなたが自分の髪になにかを「した」と考える。(中略)ミシェル・オバマが熱に飽き飽きして、ナチュラルヘアで行くと決めて、たっぷりした縮れ毛やきっちりカールを巻いた髪でテレビに出るところを想像してみよう(彼女の髪質がどんなふうかは知らないけれど。ひとりの黒人女性の頭髪に三種類もちがう髪質があっても別にめずらしいことではないし)。彼女はめっちゃ恰好いいだろうけど、かわいそうなオバマは間違いなく無党派層の票を失って、民主党員でまだ決めていない人の票も減るかもしれない。」
他にもアディーチェ的な要素はいくつもあるのだが、文字数の関係上今回は割愛したい。
このようにしてアディーチェは痛快に、ユーモラスに非アメリカ黒人から見たアメリカを描き出す。アディーチェのような、アメリカの外からやってきた、新鮮でまっすぐな眼差しだからこそ捉えられるアメリカの内部事情がある。そこにはもちろん差別の問題もあるのだが、しかし、私たちが思い浮かべるザ・差別がいかにステレオタイプ的で、生活の中に潜む、チクリチクリと人を刺すような差別や、差別されることによって変容する(させられる)スタイルがどれだけあるのかについて想像できる人が、いかほどいるだろうか。ミシェル・オバマのストレートヘアがナチュラルかどうかなんて、考えもしなかった!
アディーチェの文章は平易で読みやすい。それに『アメリカーナ』は私たちが大好きな恋愛ものだ。500ページを超える(しかも2段組!)のこの一冊でも、読み始めてしまえば案外すんなりと読み通せてしまう。しかしその中に歯応えを残すことを、アディーチェはやめない。様々な問題点を、キュートに、チャーミングに、フィクションという形に落とし込んだアディーチェの巧さには驚かずにはいられない。
まっすぐで力強いアディーチェの姿勢は、いつも私を励まし、時にうるさく、時に囁くように勇気づけてくれる。「観察することをやめないで」「想像することをやめないで」「声をあげることをやめないで」「自分らしくいることをやめないで」。いくつものアディーチェ的要素を脇に置いてもこの小説を愉しむことが出来るのは、アディーチェが描き出したイフェメルもオビンゼも、それぞれに素直で、誠実で、「自分らしくいることをやめないで」生きようとする姿勢を見せているからだろう。
余談ではあるが、アディーチェがフェミニズムについて記した著書『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』はスウェーデンでは16歳の子ども全員に配布されたという。アディーチェは世界に存在する様々な問題を取り上げはしても、断罪はしない。「共によくしていこう」と横並びになり、友好的な語り口で私たちに呼びかける。アディーチェはとにかく、希望に対して頑ななのだ。
そしてこの著書のもうひとつの特筆すべきところは、くぼたのぞみさんによるタイトルの訳だ。原題で「WE SHOULD ALL BE THE FEMINIST」とされているところを、くぼたさんは「私たち」ではなく「男も女も」という言葉を使って訳したのだ。恐らくわざと「男も女も」としたのだと思う。その理由をじっくり考察するのもまた、この本と向き合う際のひとつの楽しみだ。これは翻訳者の妙だなと感嘆してしまう。小、中学生の頃翻訳家になりたかった私は、いつまでも翻訳家の方への憧れの念を捨てられないのだ。