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「感情による認知の歪みと呪いの解き方について」(2)

2018年6月に某大学のメディア論の枠組みで、「震災とメディア」について特別講義をさせていただきました。

その講義録の文字起こしから、公開可能な部分を分けて公開していきます。講義録なので話し言葉のままになっていますが、ぼんやり聴いているような気持ちで読んでやってください。四限だったので学生さんたちはきっと眠かっただろうとそんな気持ちで。

この(2)には、2011年3月11日に起こった東日本大震災に於ける実際の人的被害等について触れています。
講義中も繰り返しましたが、当事者の方だけでなく、映像で見てしまった津波のフラッシュバックに悩まされる方など、「辛い」と思われましたらすぐに読むのをやめて避難してください。
また、犠牲者の人数等明記していますが、講義当時(2018年6月)調べの数字であり、変化している可能性もあります。
もしも明らかな事実誤認ではないかと思われる部分がありましたら、ご指摘いただけますと幸いです。以下が講義録の続きになります。

「震災当時」
そういう、「感情による認知の歪み」を、つまんない呪いなんだけどとっても大きな呪いをバンバン解いていけるように。その解き方が、わたしの話の中になんか一個でもあって、残りますように。
震災当時被災地にいて今現在もそこで暮らしているので、その中から何か、認知の歪みをとく、呪いをとく力になるエピソードがお伝えできたらと、この辺が講義の本題です。

あの大きな地震から、7年以上が経ちました。
被災三県の一つである福島県で日々を過ごし、復興のことを考えながら、津波に攫われた宮城県、岩手県の海辺を毎年歩いて、という7年以上が経った現在のわたしからの話ね。今日のわたし。2018年6月のわたしからの話。これは、とても重要。
昨年、このような本が出ました。

震災から6年目の11月に、WEBで連載していた東北の食材やお酒を紹介するエッセイを、徳間書店で本にしていただきました。
わたしとしては、少し一区切りな気持ちです。もちろんまだ終わらないことはたくさんあるけれど、気持ちはね、区切ったり落ちつけたりしていかないと、暴走しちゃうから。
7年前。
みなさんは中学生くらいかな。
それぞれ当時の記憶もあるだろうし、辛い記憶もあるかもしれない。
思い出したくないという人もいるかなと思う。辛いときは手を挙げてね。しんどいと思ったら教室出ても大丈夫。無理しない。約束だよ。

震災後から、WEBエッセイを始めた2014年までの写真はほとんどないです。
何もできなかった、という感覚。友達に遊びに来て貰ったり、自分は寄付をしたり被災地で消費をしたり。
でもこういう、何もできなかった、わたしはたいした被災をしていない、っていうのも認知の歪みだと思う。
わたしはそのときやれる精一杯のことをやった。わたしは被害を受けてダメージを受けた。
過剰にならないように気をつけつつ、でも自覚しないと。自分のことを認めてあげられないし、ダメージを受けたと自覚しなければ手当ができない。手当てしないと、痛くて傷があるまま生きてかないといけないから、無理が来ます。

わたしが住んでいる地域は原発からは遠いんだけど、1ヶ月ほとんど交通が遮断されて、物資がどんどんなくなっていきました。生鮮食品、カップラーメンはいち早くなくなった。トイレットペーパー。
この1ヶ月のことは新書館発行の「帰ってきた海馬が耳から駆けてゆく2」に長く綴っています。毎日の記録を書いた。気になったら読んでみて。

卵がなくなって。近所にパン屋さんがあるんだけど、そこに卵が入ったサンドイッチが売られていて。

このサンドイッチを食べていました。
終わりの見えない、どんどん物がなくなるばかりの日々の中、このパン屋さんは毎日パンを焼いて売ってくださっていました。コンビニも閉まった。売る物がないからね。
当たり前に食べていた卵が食べられなくて、でもここのサンドイッチには卵が挟まっていて、それは嬉しいとか切ないとかそんな簡単な気持ちでは語れない思いでした。
卵だよ。コンビニにもあるよね。今ではもう信じられない人も多いと思う。
私は毎年3月11日にはここでこのサンドイッチを買って、震災のときのお礼を言おうかと度々思いました。
でも、2016年、一昨年までパン屋さんにはお礼が言えなかった。震災から5年。
ありがとうの気持ちが大きすぎたというのも、あります。重すぎるありがとうで、簡単には言えなかった。
もう一つ、一時はほとんどこのパン屋さんだけが営業をしていました。
何故ここには小麦粉が、何故ここには卵が、という不思議さはあって、聞いてはいけないような気持ちもしていました。ガソリンもないから、何処かに探しに行くにも限界があります。
5年目に、初めてお礼を言いました。
60代くらいの奥さんが、答えてくださいました。
「うちは主人の親戚が新潟にいて、新潟から何度も小麦粉や卵や野菜を運んでもらって毎日必死で営業してたの。ガソリンもなくて、だから新潟から来てもらうしかなくて。流通が戻るのかはまるで見えなかったから、『パンの耳でもいいんです』っていらっしゃるおばあさんがいらしてね。お孫さんがお腹を空かしていてって、おっしゃってね。毎日みなさんに食べるものを渡さないとって、必死だったの」
私には震災のとき、このパン屋さんはファンタジー映画に出てくるお城みたいに思えていました。
スーパーも物がない。コンビニも閉店している。
そんな中で静かにパンを、ここだけがいつも通りに売ってくれる。
幻みたい。夢の中のお城みたいだった。
でもそうじゃなかった。
お城だと思っていたパン屋さんは、毎日毎日そんなにも必死だった。知らないって怖いね。
「でもね、時間が経ってまた当たり前に卵が買えるようになると、みんな忘れてしまうの。それは幸せな世の中だけれど、輸入に頼ることが多くなって、戦争の一つも始まれば輸入品は何も入らなくなるのに。それで農家がやっていけなくなってどんどん田畑が減って行ってる。輸入に頼る怖さを思い知った筈なのに、どうしてなのかみんな忘れてしまう」
国内の農家や、酪農がどんどん減っていくことを、パン屋さんは案じていました。
「覚えていてくれて、ありがとうね」
私がお礼を言ったのに、パン屋さんは泣いて、頭を下げられました。
TPPとか、勉強してますか。わたしは農業や漁業に対して、是非のあることだなと捉えてるけど、田舎の普通の農家に自由化は打撃だと思う。一方、うちはガンガンやりたいんだよという、無農薬とかブランド米とか、そういう若手の農業の人には、農協や漁協は中間搾取する存在。TPPの方が文字通り自由に働ける。
TPPにも色んな側面がある。難しいなと、わたしは思っています。
パン屋さんの心配を具現化してしまうのは、TPPかなと思いはします。
自分たちの国ことだから、わたしたちが決めることなんだよ。知って、決めて、選挙に行こうね。投票した政党が政権を取らずに思った通りにならないことももちろんあります。それが民主主義。

http://a-plus2.a-linkweb.co.jp/cont/es_sugano/sugano37.html

3年目にやっとWEB連載を始めました。始めるの結構大変だった。食材をどうやって毎月決めて調達するか。この頃はまだ、養殖、帆立や牡蛎のね。養殖も打撃からやっと立ち直って最初の出荷が始まった頃。今はYahoo!ショッピングなんかで、東北復興食材みたいなのおいしいの気軽に買える。すっごくいいこと。これは望んでた7年後だなあ。
当時は、立ち上がった東北の農業、漁業、酪農の食材を、まず安全だと示して、都会の食卓と結ぶことが困難だった。
こうして作られています。安全だよ。わたしはこうして食べてる。こうやって入手できます。そういうことを伝えるためのエッセイでした。

食材を伝えながら、被災地の現状も、自分で歩いて、見て、自分のサイトのブログで伝えています。
この辺は写真見ながらどんどん行こう。ブログに旅行日記も書いているので、読みにきて。

2016年、春のお彼岸に行った宮城県。「仙台海の杜水族館」。きれいなくらげ、イルカもかわいい。
こういう、

目の前で漁業ができる生態系の宮城県には、既にスーパー防波堤が作られていました。万里の長城みたいなもん。高い防波堤を長く張り巡らせるんだけど。様々是非はあって、わたしは否定派です。そのことについては本当に様々意見があると思うので、興味が湧いたら調べてみて。
震災語り部タクシーというのが、宮城県にはあります。現在、2時間半、小型車14000円。3人まで乗れるかな。楽しくはない。楽しくはないけど、気が向いたら乗ってみて。
津波で全て攫われた、閖上地区、荒浜地区に行った。運転手さんが降りて、説明してくれます。語り部はどういう人に当たるかはわからない(2018年7月にまた乗りましたが、激しく偏りのある方で、一方の事実を意図して隠蔽する方でした。質問重ねていくとそれが露呈しましたが、利権などについて何も知らない状態でそういう方に当たるととても危険だという方で。語り部タクシーも諸刃の刃だと知る出来事でした。ある程度知って行かないとと、ハードルが上がってしまいますが。このことについては後日タクシー会社に問い合わせたところ、誠実な回答がありました。試行錯誤を続けているとのことです)。

閖上地区。

閖上中学校。

今現在まだ閖上の記憶というプレハブの、震災前の景色、当時の様々を見せてくれる施設があります。この施設は、なくなるかもしれない(2018年7月に行ったところ、場所は移動して開いている日も限られていたので。行きたい場合は事前に調べてみてください)。
映像が見られる部屋があるんだけど、津波のときの。。冒頭に職員の方が、「頭の方に何分か実際の津波の映像や音が入りますが、見られない方は頭を下げてください」と言ってくれる。実際ここで辛い思いをした人がね、そう言ってくれます。わたしは学生時代のゼミの友人と行ったんだけど、若い男の子が一人いました。中学生だった。
お彼岸って、仏事です。故人を思う、春と秋の機会。ここにはたくさんの亡くなった方、故人がいるね。
映像も見ていたんだけどその少年が気になって彼を見ると、歯を食いしばってまっすぐ、津波の映像を見ていた。人の声も聞こえる。
彼は震災当時閖上小学校の生徒で、お彼岸に一人で、転居先の仙台市から自転車で来たそうです。まっすぐ見てた。
背負わなくていいものを背負っていく。この間沖縄の慰霊祭で詩を朗読した少女もそう。それは負債なんだけど、今は。いつかは彼らの力に変わること、わたしは祈るしかない。祈ります。
閖上中学校では、十四人の生徒が犠牲になった。

この横に遺品があります。
ごく普通の中学生の持ち物です。野球部のユニフォームとか。その日が来るなんて誰も思ってないからね。ごく普通の十四人の遺品が、泥土に塗れていました。
語り部タクシーに限らずこういう被災地を見て歩く何かに行くと、案内してくださる方が、写真を撮ってくださいと言ってくれます。なかなかここまで簡単には来られないから、伝えてくださいという意味。
言ってもらわないとなかなか、躊躇う場所もあるし。大槌町役場とか。2時46分で時計が止まってた。
閖上の記憶の外に小さな、十四人の中学生のための慰霊碑があった。たくさん触ってあげてくださいと、角が丸く作られていた。
わたしはこのときの話は、ちゃんとできない。
裁判なんかもありました。目的はね、繰り返さないためです。そういうことはちゃんと知ってると、震災に限らずね、遺族に心無い言葉や感情向けないですむ。
知ると、想像する力も生まれるから。
彼らは生きていたらみなさんと同じ大学生くらいだね。隣にいたかもしれない。今日ご縁があったと思って、気持ちが大丈夫なら、検索とかしてみて。無理なら大丈夫。無理そうなら、手をあわせてあげてください。
ここは荒浜地区。お彼岸だから、花を持った人たちがいて、みんな、辛い顔だ。
ごめんこれは、知らない人(講義中は教室のスライドで防波堤に座っている人物が写り込んだ写真を学生さんたちに見ていただきましたが、こちらでは防波堤の写真に差し替えます)。

ずーっと、ここに座って。全く動かず海を見てた。荒浜地区は人は住めない。災害危険区域条例による建築制限がされています。閖上地区は違う。市が違うから、行政が違うのね。閖上では生活が始まり朝市もある。荒浜は、今のところ住めない。
という説明を運転手さんから受けながら、当然宮城県の方なので。この運転手さんは、現職の仙台市長にとても大きな負の感情があるのだなと途中気づきました。市長は替わったので、2016年当時です。
これ津波タワー。

2億円これに使用。運転手さんは、建設業の方を乗せたときにうちなら1億でやるのにって言われたと言ってた。
そんなに例を見ない建物だし、必要だと思う。でも本当に2億円掛かるのか、通りすがりの建設業者がじゃあ実際1億円で作るのか。
それは、わたしにも、この運転手さんにもわかりません。この運転手さんは、個人的な感情を込めて話している。これはいいも悪いもない。ここで被災して、ここでお金の動きを見て、復興しないことに苛立ちながら暮らしている人だから、その感情は当たり前。
でも、それが事実を歪める可能性に気づいたら、その感情分は引いて聞く。この津波タワーの値段は、今のところここにいる三人には誰にもわからない。こういうの、認知の歪みを解く訓練です。
なんでも疑ってかかるというより、「それあなたには実際のところわからないことだよね」「これわたしには判断できないことだ」と、気づく。そんなに難しいことではないです。

来月また、閖上地区と荒浜に行ってくる。

閖上は桜を植えて、いつかその桜の下でもう一度会おうって、わたしが行ったとき小さな苗木が植えられ始めていた。2年経って、閖上に変化が起きたのか見てきます(2018年、このプロジェクトはなくなったと知りました。閖上に人はあまり帰っていないのが現状です)。行ったらブログに書くので、見に来てね。ウイスキーを飲んだりビールを呑んだりお鮨を食べたり牛タンを食べたりもしてくるよ。
閖上って、こういう字を書きます。
水の門。伊達のお殿様が遠く城から海を見て、ここを水の門、閖上と名付けたという説があると聞きました。諸説あるみたいです。

同年夏、岩手県釜石市に行きました。
きれいな海だった。

この海が津波となって、その日は襲ってきたわけなんだけど。このときのことはわたしは、今年の3月11日まで書けなかった。人の目が届いていない。
赤い鉄骨の南三陸の防災庁舎、朝ドラ「あまちゃん」の舞台になった岩手県の久慈市、とか、なんとなくまだしも人の目が行く。でも釜石は、誰か見てるかなって思いました。社会福祉課の方の話を聞きながら、案内して貰った。
町が全部新しい建物。全部攫われたんだなと知りました。
淡々と案内してくれたんだけど、彼女は駅に行きたくないと言って。ひと月以上釜石は何もかもが寸断されていたから、犠牲になった方がね、そこに安置されていたそうです。
海も行けないと。それはそうだ。
近くまで送るので行ってきてくださいと言われて、防波堤を超えて彼女に子どもの頃から遊んでいた浜辺ですと言われた場所に、降りてみました。
コンクリートで固められていた。
彼女が行けなかった5年、記憶にあった浜辺はコンクリートになってた。
車に戻ってそのことを、伝えました。

この年には、熊本で地震があって。
熊本出身の方、いる? 大丈夫?
わたし元気だなと若干呆れるけど、夏に熊本に行きました。
とりあえず行こうと思って。
行かないとわからないことある。で、こうやって伝えるのがわたしの仕事かなと思うのでね。
熊本のことも話したいけど、今回は東北に焦点を絞らせてね。また機会があったら聞いてください。

この年はわたしが、キャパオーバーを起こした。
情報過多になって、被災地に目が行かない事への苛立ち、温度差、わたしが立ち止まった。
自分にできる限界も、知っていかないとと思った年でした。
大丈夫、ミュージカル見たりして結構遊んでる。バランス大事みたいです。

でも翌年も海に行きました。

これは2017年、去年の春のお彼岸。さっきちょっと話題に出した、宮城県南三陸の防災庁舎。有名かな。
遠藤未希さん二十四歳が、最後まで避難を呼びかけた。彼女は4月23日、志津川湾というところで見つけられた。9月に結婚式を挙げる予定だったそうです。未来に希望を持ってと、ご両親は未希と名付けたそうです。彼女の「高台へ逃げて」という呼びかけは1万人を救ったとも言われています。
この防災庁舎には未希さんを含む、町長など54人の人が最後まで残りました。大津波は7メートルまでを想定していたけど、12メートルの大津波はこの防災庁舎を超える高さでした。
屋上で、流されないようにみんなで円陣を組んだ。広報担当の方が撮ったと言われているその写真が残っています。
女子供って、言われると腹立つ時もあるんだけど。円陣の外側はみんな男性です。この時屋上は、静かだったそうです。11人が、生きることができました。
日本は先進国の中では韓国に次ぐ自殺大国です。日本は自殺認定基準がとても厳しいので、実際は報告されている数の10倍の人が自死を選んでいると言われています。そういうときってもう、判断する力もなくしてるとは思うんだけど。こういうことを知ってると、あと一日生きてみようってもしかしたら思い出せるかも知れないね。
この間大阪で大きな地震がありました。四人亡くなった。さっきも言ったけど死は数ではないから、本当に痛ましいです。
多くの方が、阪神淡路より揺れたと感じたと言ってます。
耐震や、行動、学んで強くなったんだと思う。
阪神淡路や、東日本大震災、熊本地震。
犠牲になった方々がいて、知って人は強くなったんじゃないかなと、救われる思いがしました。

去年、わたし南三陸行ってよかった。

防災庁舎のすぐ近くのホテルで、ランチしました。お彼岸だから、たくさんの地元のご親戚たち、老人から子どもまで集まってる。
普通の笑顔。
子どもなんか走り回って、親戚の集まり。
場所は違うけど、5年目に宮城県の海辺で春彼岸に見た、人々の絶望と全く違った。
2016年に、閖上地区、荒浜地区、釜石市を歩いたわたしは、何も見えないし、誰もここを見ていないという行き止まりに立っていました。
けれど遠くで行き止まっていたのはわたしで、南三陸の人々は歩き出していた。
夏にまた、岩手県釜石市に行った。
社会福祉士の方とは、親しい友人になって、この間は会津に遊びにきてくれました。
この日彼女が「海に行きたい」と言って。
去年は行けないって言ってたけど、行けるようになったのか、それとも今日、初めて行くのか。
聞かずに一緒に行った。固められてたのとは、別の浜辺でした。

波で曲がったまま。
犬の散歩してる家族、走ってる小さなお子さんと若いご夫婦。
「違う」
と彼女が言った。
「前はみんな下を向いて歩いてたって聞いた。何か遺品がないかって、浜は下を向いて歩いてたって」
二組の家族は、遊びにきたようでした。
走ってる子は、震災後に産まれた子だと思う。
釜石市も、歩き出してました。
彼女はこの日、海に震災以来初めて行ったと、この間遊びに来てくれたときに打ち明けてくれました。
「わたしは海辺で生まれて海辺で育って、やっぱり海が好きだ」
そう言った。

彼女が生まれ育って、6年目に、やっぱり好きだと言った釜石の海。でも6年かかった。
きれいだね。
時間は、物事も人も変えていく。
それはよくも変えるし、取り返しがつかなくもしてしまう。
今を、見極めなくてはなりません。
昨日とは、今日はもう違う。今日と明日も違う。

変化について、とてもいい例だなと思って、ある参議院議員について今日話そうと思ったんだけど。
よくわからないところもたくさんあるので、ご本人に三日前に手紙を書いてみました。

(現在も活動中の議員についての私見を挟むので、割愛しながら3に続きます)

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