人と組織 .22 - 新社会人登場の季節に思うこと
今年ももうすぐ、新社会人が登場する季節を迎える。
仕事柄、長い期間、新社会人に接してきた人間として、強く感じている違和感がある。
それは、企業人としての能力を生得的なものとして捉えている企業や人事担当者がことのほか多いことである。
出身校によって企業人としての優劣が規定されているという前提があるためか、世でいう、 いい学校の卒業生を獲得するということに躍起になっている。
言葉をかえれば、企業人としての能力は、学歴が決めるというパラダイムであろう。
日本社会には、未だにこのような硬直した考え方がはびこっているが、大学卒業ぐらいまでの人間の能力には、ほとんど差はなく、仕事の能力と学歴はほとんど関係がない。
ましてや、偏差値などで人の人生をランクづけするのは、愚の骨頂である。
やや極論すれば、日本の学校教育の基本は、正解という答えをいかに見つけられるかということに過ぎない。
自らの頭を使って自らの正解を導き出すような教育は皆無に等しい。
従って、「あなたはこの状況をどう考えるか」「あなたどうすべだと思うか」等といった、自らの思考を駆使しなければならないような問いには、非常に弱いのである。
大体、能力云々といったって、大学の4年間で全てを決めること自体が馬鹿げている。
それから40年も社会人としてやっていくにもかかわらず、何故、4年間で優秀かどうかなんて決められるのだろう?
滑稽且つ不可思議ですらある。
偏差値ではなく、企業人としての成長や能力が開化するまでの期間には、時間差があり、 その時間差は、天性のものとして存在するのも事実である。
ところが、ほとんどの場合、持っているもののランプがつく前に、会社側から「能力なし」 という烙印を押されてしまう場合と、本人自身が「自分は向いていない」とあきらめてしまう場合のいずれかで、そこで可能性が消滅してしまうのである。
変化を嫌い、旧来からのやり方を守っている間に時代は大きく変わってしまった。
教育ひとつとっても「均質性重視の大量生産」で、「社会で価値を担える人材の育成」 等といった視点はほとんどない。
採用も、教育も、小手先の対応策で「やった感」を出し、抜本的な改革は見送る。
長らく、その繰り返しをしているうちに世界との差は大きく開いてしまっているのに、未だこれまでと同じ価値観で、同じやり方を続けているのが、我々、日本であろう。