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【感想】映画「ノクターナル・アニマルズ」

はじめに
以下の内容はすべてネタバレの内容になりますので予めご了承ください。
映画「ノクターナル・アニマルズ」は現在、NetflixやAmazon Primeで視聴できますのでご興味がある方、まだ見られていない方は是非ご覧になってみてください。(2024.8.13現在)

(読了時間目安:約20分)


この感想文について

この記事は、私が個人的に感じた疑問や発想など、視聴後に持て余したメッセージのカケラを寄り集め、言語化することで折り合いを付けるために書いた記事になります。「そんな受け取り方もあるんだな」くらいに軽く受け止めていただけましたら幸いです。

なお、当記事においては、監督や出演者、配給会社、関連作などについては言及せず、純粋に本作品についてのみ綴っております。
既に映画をご覧になった方を前提としており、物語のあらすじについても割愛させていただきますので、ご容赦ください。


登場人物

  • スーザン・モロー:
    主人公。昼間は成功した芸術家としての顔を持つが、夜は眠れないほどの孤独と後悔に苛まれている。敬虔なカトリック教徒でもあり、自分に厳しい側面がある。

  • エドワード・シェフィールド:
    スーザンの元夫で、小説「ノクターナル・アニマルズ」の作者。彼はスーザンへ来春出版予定の当該作品を再会を願う手紙を添えて送って来る。

  • ハットン・モロー:
    スーザンの現在の夫。過去エドワードと婚姻中の浮気相手でもある。自身の会社が経済的に困難な状況にあり、スーザンとの関係も冷え切っている。

  • トニー・ヘイスティングス:
    小説内の主人公。外見はエドワードと同一であり、スーザンによるイメージだと推測される。彼は妻と娘を暴漢達に襲われて失い、その後ボビーとともに復讐を決意する。

  • ボビー・アンディーズ:
    小説内でトニーを助ける警察官。復讐心に燃えるトニーと共に犯人を追い詰めるが、自身は退職を勧告されており、重い肺炎も抱えていた。

  • レイ・マーカス:
    トニーの家族を襲った犯人達のリーダー。彼の冷酷さと無慈悲さが、小説内の事件の悲劇性を増幅させている。


全体の感想

この物語を一言で言うと、「スーザンによる元夫エドワードへの執着」ではないでしょうか。

また、劇中スーザン宛にエドワードから届いた小説「ノクターナル・アニマルズ」を、私はスーザン自身が書いたものであると考えました。

そして、小説内に登場するエドワードと同じ外見のトニーは「信心深く弱いスーザン」
レイなどの悪党は「欲という罪を背負った強いスーザン」
欲の内容を具体的に言うと、傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食・怠惰になるのではないでしょうか。
警察官のボビーは「スーザンの罪を赦す神、復讐が許された神の御手」なのではないかと思います。キリスト教において復讐とは、人が人にするものではなく、神に委ねるものと考えられているからです。

では復讐とは何か。
劇中に「REVENGE」という作品が展示されていますが、誰が誰に「復讐」するのかと考えたとき、この小説そのものとリンクします。

それはスーザンが過去のスーザン自身へ復讐している(強い懺悔)と考えると、複雑な物語をシンプルに捉えることができました。

以下に、このような考えに至った経緯や感想を記します。

※文中で断言することがありますが、あくまでも個人的な感想になりますので、ご容赦ください。


タイトルの意味

劇中の小説と同じ「ノクターナル・アニマルズ=夜行性の動物」というタイトルは、スーザンの内面的な苦悩と自虐を象徴しています。

この物語は、彼女自身がハットンとの浮気によってエドワードとの結婚生活を破綻させ、さらに彼との子供を流産してしまったことへの深い後悔と自責の念が全体を包みこんでいるように感じました。

浮気の動機が「欲」に支配されていたことは、特に疑いようがないでしょう。

このタイトルは「夜の営み」という過ちに夜ごと苛まれ、眠れない日々を送り、今や「夜行性の動物」と化してしまったスーザン自身を表しているのではないでしょうか。


小説「ノクターナル・アニマルズ」について

この小説はエドワードから届いたとされていますが、実際にはスーザン自身による創作である可能性が高いと思います。

おそらくエドワードの作品として製本し、エドワードを装った手紙を添えて自宅へ送らせたのでしょう。

手紙にあった「君との時間のおかげで書きたいものが書けた」とは、彼女がエドワードといた時間の中で彼の小説を読み、自身の封印していた才能を開花させたことを表し、「スーザンに捧ぐ」とは「エドワードへ捧ぐ」と読み取れます。

根拠としては、手紙を執事に読ませていること。本当に待ち望んでいたエドワードからの手紙であれば、奪い取ってでも自分で真っ先に読みたいはずですし、逆にエドワードからの誹謗中傷が想定される手紙であれば、他人には見せたくないはずです。

しかし、スーザンはまるで冷静です。執事に読ませる理由は1つ。それは中身を既に知っているからです。むしろ他人の目や声を通じて受動的に聞くことで、できるだけ現実味を帯びることが目的ではないかと考えられます。

また、手紙の文面からもそれは想像できます。

スーザン自身が現在の夫ハットンへ言っているように、エドワードは現在ダラスの進学校で教師をしています。とても春に出版を控えた成功している有名作家とは思えません。ハットンはエドワードの名前すら記憶にありません。

対して、本に添えられている手紙は立派すぎます。後に本人から届く簡素なメールと比べても違いすぎるのです。

よって、これは彼女の自作自演、執事に読ませても恥ずかしくない手紙であり、「自身に相応しいエドワード像」なのではないかと感じました。

それでは偽装の動機とは何なのか? それはエドワードへの想い、執着です。

彼や彼との別れの原因を突き詰めた結果、彼の目線や考えなどを想像し、彼になりきろうとした結果が、この小説なのではないでしょうか。それは同時に、自身を客観視することに繋がり、スーザン自身を苦しめます。

小説の結末でトニーはレイに殴られ、目も見えなくなってしまい、倒れたところを持っていた銃で自分自身の体を誤射し、死亡します。

直後、場面はスーザンが水の中に潜っているシーンとなり、その後、何度もスーザンとトニーの映像が、刻むテンポが遅くなっていく心臓音とともに入れ替わり続けるのです。

トニーをスーザンと考えれば、この小説の結末は彼女の自殺願望のように捉えることができ、彼女の罪の懺悔と読み解くことができるのではないでしょうか。


小説内の登場人物について

スーザンは、実際にはエドワードよりも本当の意味での才能を持っていたのかもしれません。この作品を通じて、彼女は自らをトニーとして描写し、自分自身を罰するような自虐的な物語を紡いでいると考えられます。

物語の中で(エドワードの外見を持つ)トニーが暴漢のレイに対して普段通りに会話をしても、「偉そうだ」と反発されます。レイが見下されることに敏感であることがわかります。
これはスーザンが普段の会話において相手を無意識に傷つけてしまうことや、彼女自身の虚栄心を象徴しているのではないかと考えられます。
現夫ハットンに対してもきつい言葉を使っているように、いつも相手を見下したような言葉で傷つけてしまうスーザンですが、それは彼女自身がレイのように脆く傷つきやすいという防衛本能のような側面を持っているからではないでしょうか。
スーザンが創作したこの物語は、彼女自身の内面的な葛藤や、無意識に人を傷つける自己認識を反映していると言えるでしょう。

さらに、小説内のトニーがスーザン自身を反映していることを示すもう一つの根拠として、スーザンが堕胎した後にハットンの車で泣いているところをエドワードに見つかる場面があります。このシーンの直後、舞台は小説に移り、トニーが泣いているのです。

目の前ではボビーに射殺されたレイの仲間のルーの死体が転がっていますが、そこで彼は涙を流しながら感情に任せて「俺はあんたがあいつを撃ち殺してくれて喜んでいるんだ!」と叫び、何やら情緒不安定になってしまいます。

続けて「止めるべきだった、危険は見えていたのに家族を守れなかった」と嘆き膝をつくと、ボビーが「お前は善人だ」となだめます。
私はこの言葉が不自然に感じました。
トニーの責任ではないにしろ、トニーの選択が家族を危険に晒し、死に至らしめたことは確かです。レイのような”悪人”ではないにしろ、真反対の”善人”とまでは言えないような気がします。
よくある言葉でボビーのセリフを置き換えるならば「仕方がなかった」などとなるでしょうか。

要するにこれが、トニー(スーザン)が最も言われたい言葉、”赦し”なのです。
跪くトニーの姿はカトリック信者である彼女が神に赦しを請う行為のように見えました。

トニーのこの激しい感情の爆発は、スーザンが自分の過去の行いに対して抱く後悔と自己嫌悪を強く反映していると言えるでしょう。
トニー=スーザンであるということが、このシーンを通じてより明確になるように感じられます。


過去のスーザンと現在のスーザン

オフィス兼アートギャラリーにおいてスーザンの変化が同僚を通して浮き彫りになるシーンがあります。

変化のきっかけは、やはりこの小説の執筆でしょう。

おそらくスーザンがこの小説を書き始めたのは数年前。スーザンが意を決して電話をかけたが、向こうから切られてしまった時からだと想像します。

そこからのスーザンは、持ち前の才能でエドワードの立場や気持ちになりきろうとします。しかし、そうすればするほど、彼を通して客観的に自身の犯した罪と向き合うことになります。

自分に厳しいスーザンにとって、その罪は重く、「生まれ変わり」を望むほどだったのではないでしょうか。冒頭で友人に鬱症状を疑われているシーンや、作中に何度も水の中から起き上がるスーザンの姿が挟まれているのは、一度息を引き取り、羊水から生まれる赤ん坊を連想させます。

小説を書き終えたスーザンは、それまで野心を持って突き進み、現在の成功を手に入れた彼女とは別人のように過去の記憶の一部を失っているように見えます。


映画冒頭の印象的な映像について

映画の冒頭で登場する、太った裸の女性たちが踊る映像は、目を背けたくなるような強烈なものです。

しかし、これは作者であるスーザンにとって、自身の人生や功績が無意味に感じられることを象徴しているのではないでしょうか。

これらの女性たちは、「成功、名誉、金」という強欲をぶくぶくと太った脂肪と裸で表現し、釣り合わない派手な装飾品に皮肉を込めているように感じます。それはまるで裸の王様のように、本質を欠き、世間知らずで虚飾にまみれた自己像を浮き彫りにしているのではないでしょうか。
映像(過去)では踊っていた女性たちが、来客者の足下の台の上(現在)では死体のように横たわっていることからも、その虚しさが感じられます。
彼女がどれほど空虚で満たされない状態に陥っているかを強調しているようです。

また、この踊る女性たちに似た人物が、冒頭以外にもエドワードの小説内に登場します。テキサス州でレイが通うバーの傍らに座っているふくよかな女性達です。スーザンは小説を書き進めることで冒頭の映像作品の発想に至ったのかもしれません。

さらに、スーザンの展示会の後の食事会で、隣の席の男性が彼女の作品を「究極のジャンクカルチャーだ」と称賛するシーンがあります。しかし、スーザン自身はその作品を「ジャンク=ただのゴミ」として一蹴します。明らかに男性は世間を見下しており、「自分たちのいる世界は現実社会より遥かに楽であり、楽しめばいい」とアドバイスします。しかし、今の彼女はその評価とは対照的に、自分の作品に対して強い不満と軽蔑を抱いています。それはそのような価値観そのものを「ゴミ」と感じるに至っているのではないでしょうか。

この作品は、裸で踊る彼女たちを嘲笑する観客がいることで初めて完成するのだと思います。

対して、物語中盤にトニーがボビーとともにレイの家を訪問するシーンがあります。レイはその時庭先の開放的なトイレで用を足しており、ズボンを下ろしているためにほぼ全身裸という姿。しかし、至って自然な状況、人間として動物として当たり前の姿とも言えます。

このシーンは、スーザンが自らの成功や評価を虚しく感じていること、そして彼女が持つ厳しい自己評価が、友人たちのように楽観的になることを許さず、その葛藤をさらに深めていることを示しているように感じました。


作中の展示作品について

映画内では、冒頭の作品の他にもスーザンの内面を象徴する展示作品が登場します。

無数の矢が刺さった牛:
彼女は自身のオフィスの牛の展示を、初めて見るように眺めます。
耳にタグが付けれていることからも、この牛は人の手でオークションの対象となっていたことが想像できます。
この展示は、一頭の牛=価値ある高価なものに、たくさんの矢=人やニーズが群がっている、という表現なのではないでしょうか。誰もが欲しがる価値があるものは私のオフィスにあり私が所有している、という自己顕示欲の塊のようなオブジェです。
おそらくこのオフィス兼アートギャラリーの展示品はすべてスーザンが選定しているのでしょう。確かに過去に購入した作品であるはずですが、数ある作品の1つに過ぎず思い入れも無かったのかもしれません。
少なからず今のスーザンには立ち止まるほどの違和感が感じられたようです。

「復讐」という文字の絵:
オフィスの階段を登ったところに、「REVENGE」と大きな文字が以下のようなレイアウトで描かれています。

RE
VEN
GE

ここで日本語の「リベンジ」のように「再挑戦」の意味を一旦は受け取ったのですが、どうやら英語ではそのようなポジティブな意味は無いようです。
もう1つ感じたのは、やはりスーザンはエドワードを強く求めていたのではないかということです。
その根拠は、中央にEが3つも並んでいるためです。
「エドワード!エドワード!エドワード!」と、彼女は元夫と別れてからずっと無意識に求め続けていたのではないでしょうか。


スーザンの抱える闇

裕福な成功者であるスーザンは友人に「すべてを持っているのに不幸だなんて思う権利はない」と告白しています。この言葉から、彼女が深い不幸感と自己嫌悪に囚われていることがわかります。

すべてを手に入れられたのは、成功したからに他なりません。
映画内に、親の支援を受けているような描写はありませんし、母親もエドワードと結婚した場合には1セントも援助しないと言っています。
よって、彼女は自身の力で成功し、金も地位も名誉も手に入れたのでしょう。
それでも尚、不幸と感じるのは、それらでも買えない、何ものにも代替できないものが彼女には無かったから。
それがエドワードの愛や彼からの赦しなのでしょう。
「一途な愛、無償の愛」は彼女自身が求めている限り、彼からしか得られないのですから。

友人はセラピストを紹介し、「あなたは自分に厳しすぎる」とフォローします。これはスーザンがこれまでも自虐的な思考に陥っていたことを示していますが、スーザンにとっては友人達こそ自分に甘すぎると感じていたのではないでしょうか。

また、友人が「何が幸せで何が不幸かなんて人それぞれ」と語る場面は、スーザンの贅沢すぎる悩みが多くの観客の共感を得にくい可能性への配慮となっており、彼女への感情移入を妨げないための工夫と感じました。


スーザンと母の「悲しい目」

スーザンと母親の対話の場面では、若い頃の彼女が母に反発していたことが描かれています。
母親はスーザンに対し「あなたは将来自分と同じ道を歩むことになるだろう」と警告しますが、スーザンはこの言葉に反発しエドワードと結婚。母と似た自分を拒絶しようとしましたが、最終的には母が予言した通りの結末を迎えることになります。

ここで、スーザンと母親は似ていることを前提として、彼女が嫌悪する理由とは何だったのか考えてみたいと思います。

それは物語の後半、アパートのリビングでエドワードがスーザンへ自身の原稿を読んでもらうシーンにヒントがありそうです。

ここでもエドワードはスーザンに「母親そっくりだ」と告げていますが、ここでスーザンはどのように母親に似ていたのでしょうか。
おそらく最もそれを表しているのは、以下のシーンでしょう。

彼女は彼へ大学に戻って働くことが現実的だとした上で、
「本屋で働いて、家で小説を書く、あなたの理想の人生がそれなの?」と半笑いで小馬鹿にしたような表情を見せます。

この時、彼女の頭の中で描いている理想像は、母が言う”ブルジョワ的な生活”なのでしょう。やはり彼女の根子は母親の価値観にあるのです。

後の成功からもスーザンはおそらくエドワードが遠く及ばないほどの才能の持ち主です。幼い頃から最高の芸術作品に触れ、見聞を広げていたことでしょう。
故に彼の小説に対して称賛したり、及第点を出すことができない。
反対に、彼の才能では、彼女の能力の高さを認識出来ないとも言えます。
高みにいる彼女からは、成果の出ないとわかっている彼の努力に意味を感じなかったのではないでしょうか。

本当に大切な意味とは、二人の生活そのものであるということをまだ自覚できていないのです。

映画のラストでエドワードが現れないと確信したスーザンの「悲しい目」がアップになることで、彼女が結局は母と同じ運命を辿ったことが強調されます。
認めたくないと足掻き、避けようとした母と同じ道に立っていることを認めざるを得なくなったスーザンは、さらなる深い後悔と自己嫌悪に囚われることになるのかもしれません。

なぜエドワードは母から受け継いだスーザンの目を「悲しい目」と形容したのか。
それは野心に燃え、欲に溺れ、どんなに成功しようとも、愛を永らえることのできない人たちと同じ目だと感じたからなのではないでしょうか。
それは真実であるとともに、彼の中にある劣等感の表れだったのかもしれません。


最後の待ち合わせ

スーザンはエドワードとの再会を期待して高級レストランで待ち続けますが、エドワードは現れません。

これは、スーザンが過去の愛を取り戻すことができないことを示しており、彼女が望んでいた結末が今後永遠に叶わないという現実を突きつけます。

彼女の強い意志や才能をもってしても、現在のエドワードについて調べ上げ、電話をして拒絶され、エドワード名義で小説を書き、エドワードの立場を想像し、エドワードから届いたように手紙を装い、さらに製本を手にとって物語に没入しても、彼に近づくことはできませんでした。

先に過去のスーザンと現在のスーザンについて書きましたが、果たして彼女はエドワードを受け入れられる程変わったのでしょうか。
もし今の彼女がエドワードと別れた時点まで時間を遡ることが出来たなら後悔しない選択をできたのでしょうか。

答えは、NOだと思います。

もしエドワードと一緒になる覚悟があるのであれば、完璧主義な彼女のことです、ハットンと別れ、自身が空虚と考える地位や名誉を捨ててでも愛に走るでしょう。
映画の展開としてもありそうなお話ではないでしょうか。
しかし、そのようなシーンはありません。

彼女は本質的には何も変わっていないと思います。
それが最後に強調された”悲しい目”とエドワードが来なかったという事実に込められていたように思います。

すべてを手に入れたのに虚しい、それはまだ何か手に入れていないものがあるからではないか、それはどうやらエドワードが持っているものらしい…

スーザン・モローの前には、どこまで行っても、虚飾の欲望、所有欲という道が続いているのではないでしょうか。
彼女の”悲しい目”には愛そのものが映らないのかもしれません。

ただ、エドワードからのメールは本物だったと思います。

彼は優しく繊細な反面、意思の弱い存在です。20年近く経ったとはいえ、彼の中でも彼女の裏切りは強いトラウマとなっていたのではないでしょうか。

繊細だからこそ、彼女の悩みを察してメールの返信をしたものの、意志が弱いために、実際にレストランに行くことはできなかったのかもしれません。これは特に珍しいことではないでしょう。

または、エドワードが金銭的に困っていた可能性も考えられます。スーザンを利用することもできたでしょうが、彼はハットンのような人間とは異なり、メールまでは送ったものの、それを実行に移せるような人物ではありませんでした。
やはり、この場合も彼はレストランへ行くことができなかったでしょう。

良くも悪くも、エドワードは一般人であり、スーザンの期待するような劇的な再会は叶わなかったのだろうと思います。

もしスーザンとエドワードが再会していたら、二人は幸せになれたのでしょうか。
あなたはどう考えますか。



あとがき
芸術的映像美とともに想像力を掻き立てられる内容にのめり込んで観てしまいました。映画の考察や感想はあくまでも個人的なものになりますが、ご共感いただけたら幸いです。

あきらみきと

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あきら みきと
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