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「よき時を思う 宮本輝」感想

つけて寝て、朝、目がさめたとき、起きるのが恥ずかしくて、さらに起きたまわぬ朝となりました。よき時を思いました。幾重にもお礼申し上げます。かしこ――

物語の骨格をなすキャラクターである金井徳子が、孫の綾乃からプレゼントされたゲランの香水の御礼状の締めくくりに記した文章です。物語序盤に登場するこの香気たつ一文を読んでさすが宮本輝と総毛立ち、夢中でページを繰りました。

徳子の最初の結婚は夫が戦地で死んだのでわずか二週間で幕を閉じます。この一文の前に「十六のときにも死のうと決めて短刀を手に坐りましたが、生きることを選びました。」との文があるので、徳子は夫のあとを追って死のうとしたのだ、それほど夫を愛していたのだ、起きるのが恥ずかしくてのフレーズに込められた匂やかな空気、夫とは二週間より前からのいったいどんな物語があったのかと、それはもう胸を膨らませて夢中でページを繰ったのです。

をとこぎみはとく起きたまひて をんなぎみはさらに起きたまはぬ朝あり

さらに起きたまはぬあしたとは源氏物語からの引用であり、紫の上が源氏の君と結ばれたことをそれとなく表現したのだとも徳子は語っています。だから、ああこれが自害に至る理由と結びつくのだなと、期待して読み進めていたわけです。

しかし面白かったのは綾乃の父、金井健次郎が語る徳子の過去まででした。後半の晩餐会の場面が長すぎに感じられ、ここを削って最初の夫との話を膨らませたらいいのにとか、読者を飽きさせるなんて宮本さんどうしたん……と生意気にも思ってしまいました。締めくくりの三沢兵馬一家の物語もやや唐突。この三沢家の物語が面白いだけに、ページが足らず駆け足で書かれたような感じがするのが残念でした。

物語の構造として最初に登場するのが三沢兵馬で、終わりも三沢兵馬というサンドウィッチになっているのは好きです。三沢家の物語も魅力的なので「葡萄と郷愁」のように三沢家と金井家の物語を交互に展開したらよかったのでは?とも。

とはいえやはり宮本輝です。徳子が短剣で自害しようとしているのを健次郎が発見するのですが、

俺は体が震えて、心臓は早鐘のように打って、顎ががくがくして、石灯籠のうしろから動けんかった。

止めに入ったのではなく何もできずに震えていた、というのですね。このリアルさがいい。ほかの小説だったら迷わず障子を開けて短剣を払って、となりそうですけど、こうした場面に遭遇したら健次郎のように怖くて動けないのが実際の気がする。障子に映った健次郎の影が動いたことで徳子は自害をやめるのですが、偶然に無理がない。そしてこの偶然が運命を変えた。

かなりドラマチックな場面なのにさらりと話が進んでゆく、こういう描写はああ、宮本輝だと嬉しくなります。これをきっかけに二人は結婚するのですが、経緯をこまごまと書いてないのもいい。

最初の夫との「後追いするほど愛していた」くだりは結局最後まで出てこなかった。徳子は両親を喜ばせようとして縁談を承諾しただけであって、そこまでの気持ちはなかった。ではなぜ自害を? がよくわからず、また、徳子から綾乃に受け継がれた端渓の硯が思ったほど物語に絡んでなかった点が何とも残念。

ですが最近の宮本作品で顕著な職人技術への敬意(コンソメ・ド・ジビエとか。宮本さんの食べ物の描写って本当に美味しそう)が本作でも読めたこと、「つけて寝て、」の一文を堪能できただけでも読んで良かったと思います。


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