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読書レポート#15 『実力も運のうち 能力主義は正義か?』
選んだ背景
能力主義という考え方にどんな危険性があるのかについて興味を持ったからだ。
私は、陸上競技という完全なる能力主義社会で生きてきた。
記録を出せる人があらゆる賞賛や評価を受け、全国大会で入賞できる選手ともなれば専門雑誌に写真が載ったり、記事が書かれたり、大学へ推薦で入学できたりするなどの恩恵を受けられる。
私は努力の結果、複数の全国大会へ入賞したりU-18世界選手権で入賞するなどの実績を残すことができた。競技力に関しては努力をした上で勝ち取ったものであるし、努力した人が報われることは素晴らしいと信じている。だが、一点疑問に思っていたことがある。それは「正しい努力ができる環境へアクセスできる道は平等に開かれていないのでは?」だ。
私は一流の先生方からの指導を受けて練習し続けられたからこそ全国大会や世界大会に出られたと思っている。彼らの非常に貴重で贅沢な指導は競技者全員が受けられるものではない。私は「正しい努力ができる環境」にいたからこそ全国大会や世界大会に出られたものだと思っている。
入学した中学に偶然「競技力を高める知見を持っており」「練習道具を自腹で提供するくらい熱意のある」先生がいたために競技力を高められる状態にあり、そこで努力できたからこそ練習設備や優秀な仲間・指導者が存在する環境を選んで進学することができた。
そういう意味では、能力主義自体は肯定しつつも「運も絡むもの」と思っていた。能力主義に関しての興味をなんとなく持った上で、この本に出合った。
この本のタイトルの一部である「能力主義は正義か?」という部分にはグッとくるものがあった。能力主義という現代社会の絶対的なルールに対してNOを突きつけているように感じられたからだ。
出自によってその人の身分の上限が決まる社会よりは、学歴や能力によって身分を高めていける能力主義社会の方がはるかにマシだと感じている。
しかし、学歴や特定の能力・資格だけで完全な人物評価をできはしないし、高学歴の人物だけで固めた組織が成功できるとも限らない。
よりよい社会を考える上で何らかの新しい主義や新しい人物評価の方法を提起している本なのか?能力主義ひいては学歴主義社会に対してどんな警鐘を鳴らしているのか?
この点に興味を持ったため、この本を読んでみたいと思った。
内容
この本の著者はマイケル・J・サンデルである。彼はアメリカの政治哲学者で、ハーバード大学の教授をしている。彼の思想のベースには民主的なコミュニティを通じた「共通善」の追求があり、能力主義や市場主義を厳しく非難する立場を取っている。
能力主義(メリトクラシー)とは?
イギリスの社会学者であるマイケル・ヤングが書いた本「The rise of the Meritocracy」で提起した概念である。その人がもちうる才能と努力によって獲得される功績に基づいて、収入や職業といった社会経済的地位が決まる仕組みを持つ社会のことである。
対立しうる概念としては属性主義(アリストクラシー)が挙げられる。
こちらは、家柄や人種など本人が変えることのできない属性により生涯が決まってしまう社会である。貴族の子として生まれれば貴族になれる一方、農民の子として生まれれば農民として生きるしかないというのが典型的な属性主義社会である。
能力と努力が成功をもたらすが、すべてではない
能力主義の基本的な考え方を言葉を選ばずにいうなら以下のようになる。
成功は自分の努力の賜物、失敗は努力しなかった自己責任
能力の高い人が努力することで成功をつかむのは自然ではあるものの、成功した理由の説明には不十分である。
成功には能力と努力以外に、努力できる環境・成功まで導いてくれる人の存在と時の運の要素がある。つまり、自分の能力・努力だけでなく環境と運の要素もそろってようやく成功をもたらすのである。
悲しいことだが、多くの人は努力できる環境や成功まで導いてくれる人の存在を当たり前だと思いがちである。このため、環境や運の要素を排除し完全なる自己責任としてとらえがちになる。
そうすると、一部の成功者は「成功できないのは努力しなかった自己責任」と周囲への感謝もせず非成功者を見下すことも発生する。
※小池考察
自分の周囲の成功した競技者は「周囲のサポートのおかげ」と口を酸っぱくして発言する素晴らしい人格者ばかりであったため、幸いにも私はそうした見下しや奢りを持つことなく競技生活を送れた。彼らに対する感謝は尽きない。
メリトクラシーがもたらす学歴偏重社会
メリトクラシーでは功績をもとにして職業や収入が決まるというが、功績はどのように決まるのだろうか。
結論からいうと、功績の大部分は学歴といって差し支えない。
学業というのは義務教育で誰もが行うものであり、学業の成績でその人を評価するというのはあらゆる人物評価の中で一番公正だと判断されている。
近代では多くの企業で求人条件に四年制大学卒業者を規定しており、非大卒と大卒の人では就職できる企業の幅が大きく異なる。また、企業によっては部長以上の役職に就くためには大学卒業者でないといけないといった内輪の決まりがあったりするなど、社内における昇進の道のりも狭いことがある。
給料を含めた待遇の良い一流企業への新卒就職に有利なのは一流大学の学生とされている。特に日本では、所属大学の格(偏差値)が高い学生ほど有利である。これは、企業が大学の選抜機能を信用しており、これを利用して効率よく優秀な学生を採用しようとしているのである。
弁護士資格・公認会計士資格といった資格も立派な功績であり、これは出身大学や年齢によらず受験が可能である。しかしながら、そうした資格取得に向けた勉強の仲間や環境・教員が整っているのは格の高い大学であることが多い。
また、結婚においても学歴に左右されることがある。
結婚相手を見つける場としては同じ大学のつながり(同級生・先輩・後輩)のことが多い。これは、大学の同級生の場合は学びたいことの興味や知的レベルが近いことが多く、結果的に性格や価値観が一致しやすいことが挙げられる。
偏差値の高い大学であるほど高い知性と性格面の良さも兼ね備えている才子才媛がそろっており、また他大学の異性に対する権威を示すことも可能である。その結果、良いパートナーに巡り合うチャンスも高まる。
また、結婚相談所を通した婚活も学歴が関係することがある。結婚相談所のプロフィール欄には大抵、最終学歴や学校名を記入する欄がある。ここに有名な大学の出身者であることを示せれば、異性に対するアピールにつながる。
近年では「学歴より学習歴」という風潮がある。特に現代では時代の変化が速く、知識のアップデートができていなければすぐに"使えない人"となりがちな社会となりつつある。それでも、急に学歴以上に学習歴を重視する社会は訪れないとされている。
アメリカの名門大学への道は開かれているというけれど…
ハーバード大学・スタンフォード大学・マサチューセッツ工科大学といったアメリカの名門大学群は、世界大学ランキングで上位を独占するほどのブランド力を持ち、学術論文の質量や卒業生の活躍は世界をリードしている。
そうしたアメリカの名門大学へ入学したい人はアメリカ国内のみならず世界中に存在しているが、入学するのであれば学科試験以外のアピール事項が本当に大事である。
エッセイと呼ばれる自己PR文章やスポーツやボランティア等の課外活動への取り組み・所属高校教員の推薦状を通し"自らの力で人生を切り開く能力を持つ学生"を選抜するのが一般的である。
アメリカの富裕層は、子息をそうした名門大学へ入れようと「努力できる環境づくり」に対して多額の投資を行う。具体的には、予備校や塾へ通わせたり、個人教師を雇って面接への対策を行ったり、アピールできる課外活動への参加費用を出したりするといったことである。
アメリカ名門大学進学を目指す上では勉強以外の側面の評価が重要であるため、課外活動に潤沢な投資ができる裕福な家庭の方が有利となっているのが現状である。
なお、日本の名門大学の入学試験ではほぼ学科試験となるものの、富裕層が有利な点は変わらない。
例えば東京大学の一般選抜であれば、一次試験が大学入試共通テストである。その通過者が二次試験である東京大学の学科テストを受け、そこで合格となることで入学資格を得られる。私立の名門大学でも、一般選抜であればテストの点数のみで入学が可能である。
だが、富裕層は子息を専門の塾へ通わせたり、中高一貫校へ通わせて大学受験対策の期間を取りやすくしたり、名門校進学の個人講師を雇ったりするなどの対応を行っている。
子息をよりよい大学に入れることを目的に親が多額の投資を惜しまないという点は日米で変わらないのだ。
サンデルが語る能力主義社会の弊害
能力主義社会は属性主義社会と比較し、はるかに公正で望ましい社会であると一般的には考えられている。しかし、サンデルは能力主義が持つ弊害について警鐘を鳴らしている。具体的には下記を述べている。
能力があることの証明を得るために学歴を求めるようになる。これは学歴偏重の社会を促進し、大学へ行かなかった・行けなかった人々を貶めたり蔑んだりするようになる。
「高収入=高能力」が常識となるため、低収入だが生活には必要不可欠な仕事をする人々(エッセンシャルワーカー)を過小評価したり、ひどい場合は失敗した人々と評価するようになる。
「社会・政治問題をうまく解決するのは高度な教育を受けた専門家だ」というテクノクラート的なうぬぼれの主張は、民主主義を腐敗させ一般市民の力を奪うことになる。
学歴偏重社会となったことで大卒/非大卒の人々とで社会的分断をアメリカ国内で生んでいる。具体的には、学歴と報酬を手に入れた少数の勝者にはおごりを生み、学歴も報酬も手に入れられなかった多数の敗者には屈辱と怒りを生みだしている。これらにより、エリートに対する反抗心が多くの民衆に生まれつつある。
サンデルの掲げる対処策
巨万の富や栄誉ある地位には無縁な人でも尊厳ある暮らしがまともにできるようにすること、これが目指すべき社会のあり方であるとサンデルは述べている。
これを実現するための策について、大学入試と労働/福祉政策の観点から具体的な策を述べている。
大学入試
社会階層別アファーマティブアクション
適格者のくじ引きによる合否決定
技術/職業訓練プログラムの拡充
名門大学における道徳/市民教育の拡大
労働/福祉政策
賃金補助
消費/富/金融取引への課税を重くすることによる再分配
学んだこと
能力主義はあらゆる主義の中では最善だが、悪い側面も当然ながらあると学んだ。具体的には、下記の内容が書いてあると判断した。
能力主義社会は努力した者が報われる可能性の高い社会である
能力主義社会でいう能力は学歴のこと
学歴は努力で勝ち取れるものだが、努力できる環境にアクセスするにはお金が必要。このため富裕層が相対的に有利
努力できる環境へのアクセシビリティを考えると、能力主義社会は完全なる平等社会ではない
結局、能力主義社会でも富裕層が有利となるため、非富裕層と富裕層の格差は広がり続けると考えられる
高い報酬の仕事を高い能力(学歴)の人物に割り振るようになることで、低収入の人は能力と学歴が低いと軽んじられることになる
先の傾向により、低収入だが生活には必要不可欠な仕事をする人々(エッセンシャルワーカー)を社会が過小評価するようになる
高い学歴を持ち高い収入を得られる仕事に就いていることは確かに成功者といえる。ただ、この成功に至るまでにどれだけの支えがありどれだけ良い環境で過ごしてきたかを意識しないといけない。他者の支えや環境に対する感謝ができなければ、エッセンシャルワーカーを見下す残念な人になってしまう可能性があると感じた。
電気や水道・ガスやネット通信を安定供給してくれたりゴミ収集をしてくれたり警察や消防・救命の活動など、生活基盤を作り支えてくれる方々がいてこそ我々が平和で快適な生活を営むことが可能である。
ちょっと高く跳べたりちょっと他人より高収入だったりちょっと学歴があるだけで他者を見下すような人には今後なりたくはない。また、そういうマウントを取る人との関わりはもちたくないと思う。
この本を読んで、能力主義の良くない側面も知ることができた。
また、私をここまで育ててくれた方々に対する感謝とエッセンシャルワーカーに対する敬意をあらためて感じることができた。
読んで非常に有意義な本だったと思う。