人間は本当の意味でお互いを理解することはできないみたい
最初の違和感。高校時代。私は性善説で生きてきたらしい。友達は性悪説で生きてきたみたいだ。そして,社会的には,少なくとも当時の私の周りの社会では,性悪説を軸に生きている人が多いみたいだ。私は恵まれていたように感じる。それは,明確な悪意に出会わずに生きてこられたこと。あるいは,悪意に気が付かずに,ただの阿呆として生きていたこと。
大学生になった私の世界は広がった。やはり依然として性善説を持っている。環境が大きく変わってもであるものに悪意を感じることはなかった。離れるまで気が付かなかった。大学に行ける環境で過ごしてきたものだけの環境で培われた価値観であったこと。
高校時代の友人は性悪説を持ったまま警察官になった。彼は性悪説を持って遂行すべき職務に従事したのだ。一方私は,ふらふらとしている。性悪説の必要はない。誰かがきっと助けてくれる,そんな性善説がないと生きていけない気がした。
彼女は常に死にたがっていた。私は理解しようとした。今でもしている。しかし,それは理解した気にしかなれないものだと感じた。私はいきたいのだ。いつのことだったか,私は100歳まで生きると考えるようになった。何がなんでもそこまでは生きてやろうと。
そして,彼女は死んだ。一生懸命死んだようだ。私が何かの目標を掲げてそれを達成するのと変わらない。彼女は完全に死ぬことを目標として,一生懸命それに向けて動いたのだ。その行動については理解することができた。
人の欲望に限りはない。お金が欲しい,名声が欲しい,働かなくて生活していきたいし。そこに並列するように,この世から消えていなくなりたい欲望がある人がいる。私はやはり,理解した気にしかなれない。彼女たちは,私が労働の対価に金銭を受け取り所望したものを購入するように,この世から消える手段をとり続けて,努力の結果としての死を望んでいるように見える。
でも,これも勘違い,誤解,認識違い,たくさんのズレがあるんだろう。当事者から丁寧に説明してもらったところで,その場で理解できた気にしかなれないんだろう。
私は一生懸命生きる。彼女は一生懸命死ぬ。文字にして並べると,同義にも感じられてきた。