欲をかいた人間の所業と末路
AKIRAです。
本日は以下の二つの記事をもとに話をしていきたいと考えています。
人間の欲に上限は存在しない
人間の欲、というものは制限がつけられないものです。
以前の記事(人間社会における生物学)でお話ししたように、欲に支配された人間がどのような末路をたどるのか、という話を別の記事で書こうと思います、と申し上げましたが、この記事でそのことを書こうと考えています。
科学技術は万能ではない
以前にもお話ししましたが、科学技術は万能ではありません。
専門ではない方の目から見れば、まるでオーパーツのような技術に映っていても、実際はそんなに便利なものでもないです。
しかし、そこに分別を付けられない輩がいます。
そんなブレーキの外れた人間による科学技術の課題点を無視した技術運用が、数々の悲劇を生んできました。
医学や薬学、生命科学の分野では、薬害の歴史がそうです。一方で、その問題点と真剣に向き合ってきた人たちもいます。
では、彼らのような向き合った人間とそうでない、いわゆる分別を付けられない輩の違いは何でしょうか。
私は、利権の有無である、と考えています。
都合のいいデータは論理性を欠く
科学が万能でない理由の一つとして、「都合のいいデータ」が挙げられるでしょう。
研究を進めていくと、途端に劇的な(drastic)データというものが出てきます。そうなったとき、まず考えなければならないことは、そのデータが自身にとってあまりにも都合がよすぎるのではないかということです。
「都合がいい」とはどういうことかというと、以前の記事で「条件ありき」の話をしたことを覚えておいででしょうか。忘れている方、あるいはまだ読まれていない方は「生命科学研究の論文の扱い方について」をご一読ください。
本題に戻りますが、実験をするうえで大事なことはスキのない条件検討です。ゆえに、中途半端に条件を決めて実験をしてしまうと、論理に大きな穴ができてしまいます。だから、自分にとっていい結果であると思われる都合のいい結果は、実際はそこまでいい結果でないこともあります。しかし、そうはいっても人間のやることですから完璧な実験を常に組み立てることは不可能です。だからこそ、論文にするときは表現に細心の注意を払う必要があります。いわゆる「批判的に見る」というやつですね。
しかし、利権の息がかかった人間にはそういうアンテナが存在しません。そんなことよりも都合のいいデータにスキがないことの理由付けをすることを優先します。
そして何より最悪なのは、査読する側にそういった輩が存在する場合です。
正直、私自身もそんなことがあるのか?と思うときもありますが、実際、「なんで査読通ったんだろう?」と疑問に思う論文はなくはないです。
査読する方も人間ですから単に見逃しただけなのか、何か意図があったのか…?
まあ、この辺は結局陰謀論扱いになるだけなので言うだけ無駄なのかもしれませんが。
研究の限界に触れない
これも相当に悪質ですね。
条件ありきであれば、当たり前ですが論文で言えることにも限界と言うものがあります。
以前にも同じことを書きましたが、研究で提示されている結果は、筆者が設定した最適条件下にある状態での結果です。マウスや昆虫の細胞で評価されたことだからといって、ヒトで同じことは言えません。マウスの体で評価されたことであっても、ヒトで同じことは言えません。なぜなら、マウスは小型動物であって大型の動物で検証されていないので、ヒト相当の実験が行われたわけではないからです。
「じゃあ、何も言えねえじゃねえか!」と思ってしまいますが、そうではありません。研究にも段階というものがあって、動物を使った研究には厳密な倫理がはたらいています。細胞レベルで検証されていないことをいきなり動物の体で検証することは研究手法として適切ではありません。
だから、一旦細胞レベルの実験で検証を行うことで、動物の実験を行うに足るモノなのかを確かめなければならないのです。(もちろん、実験によっては生体を使わないと検証が成り立たない場合もあるので原則上のものにはなりますが)
そんな中、研究者が勝手にヒトの生体サンプルを実験に使用したらどうなるでしょうか?
残念ながらここ数年、そんな動きもあったようですが、いずれにしろその行為はルール違反どころの騒ぎではないでしょう。
しかも、その検証が科学的に正当であると宣っているのだから話にならない。通常、細胞の動きだけで判断できないことや実験条件の都合で検証不可なことについては論文内にてどのようなことが検証できないかを記述するものですが、どうやら査読の済んでいる論文の中にはその点をぼやかして書いているものもあるようなのでしっかりと検証されているのもなのか怪しいものです。
じゃあ、そう言う論文が具体的にどんな書き方をするのかというと、その技術の問題点を数行程度の記述で済ませ、逆にその技術の社会的なメリットを誇張し、そのためのポジティブデータをわざわざこれ見よがしに根拠にするのです。
よくもまあ、こんな論理的公平性を欠いた論文の査読がどうやったら通るのか教えてほしいですね。
利権はそれらを正当化するための便利なツール
権利、というものは非常に便利で、そう言うルールに例外的な穴を生じさせ、使いやすいようにするための手段のひとつです。
一方で、利権とはその「権」利を都合良く「利」用するためのものです。
しかし、実際は都合良く利用したいからつくったものであって、そんなことはどうでもいい人間から見ればただただ自分勝手な連中のワガママ自己中ルールです。
都合良く作られたものにはそれなりのコストが生じる
さて、ようやく本記事の本題ですが、そう言った便利なものには必ずコストがかかります。
例えばiPS細胞。
あれは作る過程で4つの遺伝子を細胞に導入することでiPS細胞を誘導しますが、そのうちのひとつであるc-mycという遺伝子。あれはもともとがんに関連した遺伝子で、発現量が多いと癌化のリスクがあります。つまり、iPS細胞誘導過程は癌化との戦いになるわけです。そのリスク(コスト)が誘導効率を下げる原因にもなっています。
例えばmRNAワクチン。
確かにmRNAは人間が生理学上当たり前に用いる生体分子の一つですが、自分のものではないRNAは分解するような仕組みが細胞にはあります。
このため、通常のRNAでは免疫原性を保証できない。よって、その分解を回避するためにRNAの構成分子に化学的な処理を施してできたのが修飾ウリジンを用いたmodRNAと呼ばれるワクチンです。
そんなものを細胞が正常に代謝できるとは思えないし、現に体内に残留することが知られています。つまり、目的に忠実すぎて後の事を全く考えていないのです。細胞のなかでウイルス由来のタンパクを高発現することの意味を開発者は正常に理解しているのでしょうか?
少し例を挙げただけでもこれだけのコストがかかっているのに、どうして得られるプロフィットが上回っていると考えることができるのでしょうか?
しかしiPSとmRNAワクチンでは条件が違う
ただ、この二つは明らかに違う点があります。
iPS細胞の場合、セーフティネットがはっきりしているのです。細胞のドナー側の情報は、基本的な情報(性別や年齢など)以外個人につながるものはすべて非公開ですし、各ロットは研究用として厳密に管理されます。
当然、その細胞を扱う人間には幹細胞を扱うための講習を受けることになりますし、臨床で扱う研究はどれも数十年単位で行われている研究ばかりです。
細胞培養として扱う場合でも、医薬品のスクリーニング(有効成分に効き目があるかどうかをざっと調べる操作)で扱われています。こうすることで臨床で行わなければならないリスクを非臨床である程度回避することができます。(臨床で行う場合、予想だにしなかった副作用が検体である人間に生じてしまうリスクがあるため、iPS細胞から誘導した細胞組織であらかじめそのリスクを検証することができる)
一方で、mRNAワクチンではその動きは全くありませんでした。
LNPによる細胞導入にしても、標的となる細胞は非選択性で、どこに入っていくのかもわからない。肝心の有効成分であるmodRNAの半減期はあやふや。今出ているデータも培養系で検証されているものはほとんど皆無です。
だから、細胞レベルでどの程度の遺伝子発現が起こるのかも検証できていないうえに、そこから細胞で具体的にどんな生理学的現象が起こるのかについても全く分かっていない。もはや、遺伝子発現の基礎を抑えている研究者の所業とは思えない体たらくです。
結局、心筋症の病態メカニズムについても後になって出てきた有害事象を検証するだけで終わり。それも、「副作用」ではなくあくまでも「有害事象」。
そんなにワクチンの問題に向き合いたくないのでしょうか。理解できません。
そうやって重要な問題は捨て置かれ、縄張り曲線は右へ
この図(↑)、覚えていますか?
縄張り曲線です。
技術革新におぼれた人間は、その市場を拡大しようとして、縄張りの大きさをどんどん大きくしようとします。
しかし、得られる利益は縄張り拡大(市場拡大)の途中で頭打ちが来ることに気づいていません。そうなると、どこかでそれを上回るコストが生じて逆にコストが大きくなることに全く気付かない。
ワクチンの場合、ワクチンで一儲けしようとして市場が拡大(グラフ横軸の値がどんどん右へ。)、すると一時的に利益はありますがその影響は止まります(利益は無限大には増加しない→密度効果)。要は、ワクチン需要の急低下です。一方、それらを維持するコストやリスク(ワクチンを製造するための資金、後になって出てくるであろう副反応・副作用の問題)を抱えることになり、その増加スピードは指数関数的に増加。あまりにも早く増大するものだから利益は逆に落ちていき、コストが利益を上回って、もはやそうなったときには手の付けられないことになっておしまいです。
その責任はだれがとってくれるのでしょうか?
手に負えないのなら手放せばいい
車だって、事故が起こるかもしれないほど疲れているのなら、その日は乗らなければいい。夏に生ものを食べたらおなかを壊すかもしれない。そう思った時点で別のものを食べればいい。
そのレベルの話です。
しかし、それでも彼らは利益を優先してしまう。我慢が利かない。
結果、交通事故や食中毒にあたってしまうのです。
さて。ワクチンの場合、どんな「事故」になるんでしょうね?
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