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九相詩絵巻 あるお仕事ついでに思い出したあれやこれや


 最近、(あるお仕事をきっかけに)昔読んでいた某カルト雑誌に身体改造実践者の記事があって、それにとても興味を覚えたのを思い出した。

   それは、男性器を完全切除した65歳のマルセルという男性のインタビュー記事なんですが、記事添付の写真に魂を吸い寄せられた記憶が鮮烈だったからなんです。
 マルセル氏によると男性器の完全切除を実施した後も、2週間おきに男性ホルモン投与を受け続けると、性的生活には感覚的な変化が訪れないのだとか。
(男→女の逆パターンなのね、、。)

 くわえてマルセル氏曰く「尿道に小指を入れてプレィできますし、勃起に似た感覚を楽しめ、絶頂に達します。以前とまったく変わりありません。」     この辺りが、"オンナ"になる為の手術と、身体改造実践者の「実践」の違いなのかなと思うんだけど、じゃあなぜ他の方法を使わず、あえて身体を弄るのか?という疑問がでて来ます。

 「1988年に私がエイズに感染していることが判明し、自分の性器を憎むようになり、去勢に興味を持ち始めるようになりました。」  
       これがマルセル氏の自己分析。
     私が一番、引っかかってるのが身体への「憎悪」という事なんですよね。
     そこには身体と精神は分離可能なものという「捉え」方があるように思うんです。

 で次に「じゃあなぜ心と身体を切り離して考えようとするのか、、」そういう問題が出てくる。
 昔、養老孟司氏の「バカの壁」を読んでいて、その辺りを解明するヒントみたいなものを感じたんだけど・・やっぱりキーワードは「孤独感」だと思うんですよね。
     それも生理学上の孤独感ではなくて観念的な意味での。

 話はガラリと変わりますが、Sプレイをやる際には、例えば手にぴっちり填めたゴム手袋でM夫君の舌をいたぶる時、マウスリトラクターを装着させてると口が閉じないので便利は便利だけど、男の口の中なんて本音でゆーとやっぱり全然みたくない(笑)。

 私の所属倶楽部には純女さんのMプレイヤーもいるんだけど、この娘も職業M女で、ホントはMっ気がさらさらない。
 ただし彼女、こうゆープレイに対する「耐性」が、凄くあって、Mプレイの時は「自分の心が幽体離脱して」Mの自分とSのお客さんの行為を冷静に観察してるのだとか。

 その彼女は、鼻フックからウンコ喰いまでなんでも平気なんだけど、中でもマウスリトラクターを使わせての「被舌レイプ」が得意とゆーか、需要が多いのだそうです。

 彼女曰く「マウスリトラクターって、気持ちを引いて(俯瞰的に?)見ると、人の皮の奥に髑髏が見えて」きて「お客さんって深層心理ではそういう所で私から快楽を啜っている」んじやないかって言ってました。
 確かにマウスリトラクターが顔面に引き起こすグロさって一種独特ですからね。

 彼女の話と聞いてとゆーかマウスリトラクターのことを考えていて思い出したのが、京極夏彦の短編集「巷説百物語 」の一編、「帷子辻」です。
 京の外れは帷子辻に、京都町奉行所与力・笹山玄蕃の妻女「さと」の腐乱死体が捨てられていた。
    さとはこの事件の二か月程前に他界しており、その後、死体が何者かに盗まれ行方が判らなくなっていた。
 さとの変わり果てたその姿は、まるで小野小町壮衰図のように、見る者にこの世の無常を感じさせるものだった。
 事件の下手人は?そしてその目的は?  
・・・・みたいな話なんだけど、ここに登場する小野小町壮衰図は九相詩絵巻とも呼ばれていて、昔の日本人が「美・生」に対して感じてた諦観が、よく現れているものなんですね。  

   死体と向き合って生きてきた解剖学者の養老孟司氏が、鎌倉時代に描かれたこの「九相詩絵巻」を紹介しているそうです。

 「九相詩絵巻」には、女性の死体が風化していく順に九つの姿が描かれているんです。
 一番に生きていたときの女性の絵。二番に、死んだ直後、身体を洗い清める湯灌をした後、生前身に着けていた着物を身体にかぶせた絵。
 その後、死   体が膨張し、腐敗し、鳥獣がついばみ、ついには白骨になるという順番ですね。

 養老氏は、中世の人たちが、日常生活で死体の九相をしっかり見る生活を送っていて自分の感性を形成していたの対して、このリアルさが失われたのが、江戸時代以降であると言及しています。
 説法的に言えば、「どのような美しく飾られた女性であっても、死ねば腐り汚い姿となって骨と化す。何時までも美しいものはこの世にはない。“美”は時が経てば“醜”となる。絶対的な“美”など無いのだ。
そんな果敢無いものに現を抜かし、心を囚われ人生を送る事は、大変虚しく愚かである。」と言うことですね。
 これを戦国時代までの人間は己の実感というか生身の生死観として身につけていたということです。

 所で私がWEB小説で手掛けたいメインテーマの一つが「表層が本質を変容させる」なんです。
 まあぶっちゃけて言えば「人は外見」「綺麗、格好いいは善。醜怪、格好悪いは悪」「中身なんて関係ない」みたいな話ですが、実際、世の中はどんどんこの方向に転がり始めている。それも凄いスピードで、、。  
  いつまでも現役ギャルでいたい母親の出現だとか、例を上げれば切りがないくらいにね。
(これは少しルッキズムの問題とは微妙に違いますが)
 所が人間が「九相詩絵巻」の現実から逃れられるのかと言えばやはりそれは無理なんですね。
    そこで凄い葛藤や精神的倒錯が文化的レベルで発生する。
 私なんかはある意味、"フェテッシュ"もその一つじゃないかと思ったりしてます。

 マウスリトラクターで美女の顔の皮を半分無理矢理はがしかけると、そこに普段隠されている歯茎や喉が見え、人の顔の本質的な輪郭は髑髏であることが見えてくる。  
  そこには死と生が同時に存在する、すごく肉欲的な「九相詩絵巻」が繰り広げられているわけですね。

※私のテキストには性トランス等のテーマが多いのですが、これらは現在語られているLBGT関連の視点とクロスする部分や、又それに対する価値観を提案する意図は全くありません。あしからず…。



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