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「人間はいったい何をしているのか」~凶弾に倒れた伊藤一長前長崎市長が遺した平和宣言

 2007年4月17日に長崎市長選挙に立候補していた現職の伊藤一長氏が暴力団関係者の銃撃を受けて死亡した。市長選の遊説の途中に現職市長が襲われるという民主主義の根幹を揺るがすような事件だったので、覚えている方も多いだろう。今年で事件から15年が経つ。

 事件の犯人は無期懲役で服役中に死亡した。

 2020年1月22日のことである。新聞報道では、当時の市の対応に不満を持って市長を射殺したとされているが、果たしてその程度のことで現職の首長を選挙期間中に公衆の面前で射殺する必要があったのか疑問でしかない。

 伊藤一長市長は事件の前年、2006年8月9日、長崎に原爆が落とされてから61年が過ぎた「長崎平和宣言」を読み上げた。これが伊藤市長の最後の「平和宣言」となった。

2006年 (平 成 18年 )

長崎平和宣言

 「人間は、いったい何をしているのか」
 被爆から61年目を迎えた今、ここ長崎では怒りといらだちの声が渦巻いています。
 1945年8月9日11時2分、長崎は一 発 の原子爆弾で壊滅し、一瞬にして、7万4千人の人々が亡くなり、7万5千人が傷つきました。人々は、強烈な熱線に焼かれ、凄まじい爆風で吹き飛ばされ、恐るべき放射線を身体に浴び、現在も多くの被爆者が後障害に苦しんでいます。生活や夢を奪われた方々の無念の叫びを、忘れることはできません。
 しかし、未だに世界には、人類を滅亡させる約3万発もの核兵器が存在 しています。
 10年前、国際司法裁判所は、核兵器による威嚇と使用は一般的に国際法 に違反するとして、国際社会に核廃絶の努力を強く促しました。
 6年前、国連において、核保有国は核の拡散を防ぐだけではなく、核兵器 そのものの廃絶を明確に約束しました。
 核兵器は、無差別に多数の人間を殺りくする兵器であり、その廃絶は人間 が絶対に実現すべき課題です。
 昨年、189か国が加盟する核不拡散条約の再検討会議が、成果もなく閉幕し、その後も進展はありません。
 核保有国は、核軍縮に真摯に取り組もうとせず、中でも米国は、インドの核兵器開発を黙認して、原子力技術の協力体制を築きつつあります。
 一方で、核兵器保有を宣言した北朝鮮は、我が国をはじめ世界の平和と安 全を脅 かしています。また、すでに保有しているパキスタンや、事実上の保有国と言われているイスラエルや、イランの核開発疑惑など、世界の核不拡散体制は崩壊の危機に直面しています。
 核兵器の威力に頼ろうとする国々は、今こそ、被爆者をはじめ、平和を願 う人々の声に謙虚に耳を傾け、核兵器の全廃に向けて、核軍縮と核不拡散に誠実に取り組むべきです。
 また、核兵器は科学者の協力なしには開発できません。科学者は、自分の国のためだけではなく、人類全体の運命と自らの責任を自覚して、核兵器の開発を拒むべきです。
 繰り返して日本政府に訴えます。被爆国の政府として、再び悲惨な戦争が起こることのないよう、歴史の反省のうえにたって、憲法の平和理念を守り、非核三原則の法制化と北東アジアの非核兵器地帯化に取り組んでください。さらに、高齢化が進む国内外の被爆者の援護の充実を求めます。
 61年もの間、被爆者は自らの悲惨な体験を語り伝えてきました。ケロイドが残る皮膚をあえて隠すことなく、思い出したくない悲 惨 な体 験を語り続ける被爆者の姿は、平和を求める取り組みの原点です。その声は世界に広 がり、長崎を最後の被爆地にしようとする活動は、人々の深い共感を呼んでいます。
 本年10月 、第3回「核兵器廃絶-地球市民集会ナガサキ」が開催されます。過去と未来をつなぐ平和の担い手として、世代と国境を超えて、共に語り合おうではありませんか。しっかりと手を結び、さらに力強い核兵器廃絶と平和のネットワークを、ここ長崎から世界に広げていきましょう。
 被爆者の願いを受け継ぐ人々の共感と連帯が、より大きな力となり、必ずや核兵器のない平和な世界を実現させるものと確信しています。
 最後に、無念の思いを抱いて亡くなられた方々の御霊の平安を祈り、この2006年 を再出発の年とすることを決意し、恒久平和の実現に力を尽くすことを宣言します。

2006年(平成18年)8月9日
長崎市長 伊藤一長

長崎市公式HPより抜粋

 間違えてほしくないが、伊藤市長はバリバリの保守政治家である。決して左翼ではない。伊藤氏は1995年の市長選に自民党の推薦を受けて立候補し、同様に右翼の凶弾を受けた本島等市長を破って初当選した人である。

 あれから15年も過ぎて、今さらのように核兵器の使用が示唆されたり、それに乗じて「核共有」などという妄言を高らかに掲げる政党や政治家が現れることには、怒りというより落胆や悲しみしか感じない。

 日本は米国の原子力爆弾による大量殺戮(ジェノサイド)を経験した国である。その国が戦後、その米国の傘の下で平和を築き、そして、2022年のロシアによる核兵器の威嚇を前にして、核兵器保有国と核を「共有」しようというのだ。それはまさに大国(米国)の持つ核兵器が一つの独立した経済大国(日本)を巧妙にコントロールし、支配下に置くという仕組みを、日本自身が支配された側として実証しているのである。核兵器でウクライナを威嚇するロシアとの関係と何が違うというのか。

 長崎を最後の被爆地にしたい。そういう被爆者たちの切実な思いを踏みにじるように、アメリカやソ連は核軍拡競争に明け暮れ、中国がアジアで初めて核兵器を保有し、日本にとっての脅威となっている。しかも、北朝鮮をはじめとしたさまざまな国々があたかも自国の権利であるかのように核兵器を開発し、保有しようとしている。

 核兵器のリアリズムとは、《使わずに平和を守る》ことではない。昨今の保守政治家には、こういう勘違いが多すぎる。

 核兵器は持っている限りにおいて民間人の大量殺戮を容認しているのと同じだ。使わないから安心しろという《抑止力》など、抑止力として機能しない。誰もが広島や長崎の惨状を知っているから、核兵器を持つのであり、核兵器を恐れるのである。

 たった一発、核兵器が使用されれば、核保有国の大半は核の撃ち合いを強いられる。地球は破壊され、人類は滅亡の危機に瀕する。核戦争に勝者はいない。

 リアリズムを追求するのであれば、核兵器は全廃するしかない。

 15年前、なぜ伊藤市長は銃撃されなければならなかったのか。

 服役していた犯人が死んでしまった今では、もう解明は難しくなってしまった。私は事件から15年経って、日本の空気が伊藤市長を殺してしまったのではないかと思い始めている。「最後の被爆地」である長崎の市長として、最期まで核兵器廃絶を訴え続けた伊藤市長。もしも現代に生きているとしたら、どんなメッセージを発信するだろうか。

 きっと、ロシアによる核兵器の威嚇を怒り、日本の保守政治家たちがそれに乗じて煽る「核共有」議論を一蹴していたに違いない。

 「人間はいったい何をしているのか」

 この言葉は、現代の我々に向けられているのだ。今一度、あの平和宣言に立ち戻りたい。


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森地 明
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