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映画『オッペンハイマー』感想+科学的背景まとめ

はじめに


 映画では、時代の行き来がカットで行ったり来たりで、量子物理学、アメリカに於ける核兵器開発の歴史、オッペンハイマーの生涯、反共産主義否定の歴史が分からないと、ついていけない様な感じを強く受けました。この辺を、正確に説明してくれているのが、下記の投稿にありますので、同じ思いをお持ちの方は、ご参照ください。

 因みに、私にとって解り辛さを助長していたのが、モノクロ場面で、私の概念では、古い場面の方がモノクロ画像として、現代をカラーにするのが、常識でしたが、今回のこの映画では、最も進んだ時間での場面をモノクロにしていたので、映画の途中まで、混乱していました。

正直な感想

 最初に驚いたのは、アインシュタインの登場でした。誰でも知っているアインシュタインと、オッペンハイマーは、旧知仲の様で、映画の初期に出会った場面での両者のやり取りが、オッペンハイマーの後援者にも思えていたルイス・ストロースとの映画後半の戦いの火種になっていたことは、予想が出来ませんでした。
オッペンハイマーが学生時代にヨーロッパに留学中に出会った、ニールス・ボーアとヴェルナー・ハイゼンベルクの登場は、エンジニアとしての私にも新鮮でした。ボーアもハイゼンベルクも、物理学をかじったものには、一度は振れたことがある名前で、オッペンハイマーの心の師であった様です。量子物理学の歴史に関しては、後半で触れることにします。
 オッペンハイマーが、物理学の研究の転機やキャリアの転換時に、粒子が流れ渦巻くような動画が流れます。幻想的な、宇宙的なイメージ動画ですが、これは量子物理学をイメージした画像で、ウルトラマンや怪獣映画に慣れ親しんでいる日本映画ファンにはよく理解できるのですが、一般的な鑑賞者にも理解できたのでしょうか? オッペンハイマー自身も、『原爆の父』として有名な訳ですが、彼の経歴からは、宇宙物理、星の成り立ちやブラックホールに興味があった様で、映画の中でも宇宙、星への憧れが、何度か描かれていました。でも、星への憧れを持ち、ブラックホールや宇宙物理学への興味を持った科学者が、『マンハッタン計画』という大きなプロジェクトのリーダーに何故選ばれたのか? また、どの様な能力で成功に導くことが出来たのか? 非常に疑問の残る所です。
 『マンハッタン計画』の技術開発をになったロスアラモスという場所を初めて見たことは、映画画像ではありますが、本当に新鮮でした。新たに街を作ってしまったのですね。学校、バー、レストランと居住施設を荒野の真ん中に、有刺鉄線で囲まれた隔離された街を作ったのです。情報隔離のためです。一方、ロスアラモスは、巨大な『マンハッタン計画』の一部でしかありませんが、この改革の中でも中核を担っていたことは間違いがありません。『マンハッタン計画』については、後半で調べた結果をまとめ、記述させていただきます。
 ロスアラモスでの技術者の英知の結集と、努力の結果から、原子爆弾が組みあがったのでありますが、原子爆弾の構造や組み立て方法は、多分、比較的に極秘情報であろうから、ネット上でも中々見つからない情報でしたので、ちょっとした原爆の画像でしたが、核分裂臨界に持っていくための弾薬の組み方とか、実際の大きさの規模感を、映画で、模造であったものであるが、目にしたことは新鮮でした。組立の工程では、球形の爆薬ブロックを幾つかに分解した形で作り、レゴブロックの様に組み立てる構造であったことは、組み立て工程としては合理的で、エンジニアとして非常に興味深かったです。この映像で出てきた原爆実験用の『トリニティ』は、実は、最初に広島に実践投下された原爆とは、構造が大きく異なっていることは、本映画では、まったく描かれてはいませんでした。描かれていた『トリニティ』と同一の原爆は、長崎に投下されたものでした。広島型と長崎型の原爆構造自体の差異に関しては、後で解説させていただきたいと思います。原爆の製造が完了し、実践向けの2個の原爆が搬出された場面がありましたが、実は、あのトラックには、形式の違う広島型と長崎型の2種類の原爆が載せられていたのです。確かに、木枠の大きさ形が異なっていました。
原爆の完成を待っていた軍部、アメリカ政府は、これを使用する機運が高まります。オッペンハイマーを始め、エンジニアは、その大きな威力を理解していますし、理論的に、核分裂が、止めどなく連鎖して地球全体に進行する危惧が拭い切れないことから、異論を述べるわけですが、使用を止めることは出来ません。核分裂の連鎖に関しては、アインシュタインまでに意見を伺った次第です。が、やはり理論上の議論で、連鎖の完全否定の答えは得ることが出来ませんでした。
 完成した原爆『トリニティ』の実験の場面ですが、実験場の選定から、天候の影響、実験の傍観者まで、その行動が、相当細かく描かれていました。これにより、臨場感を高めて行けていると感じました。一方、実際の爆発の映像は、原爆の本当の威力を表現し切れていない気もしました。実際、核爆発の様子やきのこ雲の描写は、ゴジラ-1.0の方が、共感が持てました。また、私が、原爆実験の資料映像を見てきた物より、衝撃波や爆風の威力は、弱めに描かれていた様にも感じました。
 核実験に成功した後、映画の進行のポイントになった音が設定されています。はじめは、軍隊の揃った歩行、足踏み音ではないかと思っていましたが、実は、核実験成功後に開かれたロスアラモス村の祝いの会での参加者の賛美の足踏みでした。非常に大きな音で、強迫観念を抱かせるような大音響の足踏み音が鳴らされます。また、この賛美の会では、一部、幻想的に、光のホワイトアウト状態の映像の中で、参加者の皮膚の剥がれのカットが挿入され、また、黒焦げの死体に英雄のオッペンハイマーが足を取られる様なカットが入れられていました。しかしながら、実際の原爆の惨状を習った日本人や、広島、長崎での原爆資料館を見たことのない聴衆には、このカットの意味が理解できないのでは無いかと思った次第です。
 原爆の完成した時には、既にナチスドイツが壊滅していました。原爆開発の動機は、ナチスドイツが、原爆開発を進めていた情報からで、また、第二次世界大戦を原爆の脅威で終わらせることでしたので、この目標を失ったわけです。そこで、急遽目標が変更されます。日本は、当時、本当に本土での徹底抗戦が謳われていましたし、硫黄島や太平洋の洋上に浮かぶ島々の玉砕、沖縄の占領、主要都市の爆撃機B29による焦土作戦でも、停戦に応じることはありませんでした。そこで、アメリカ軍部、政府では、対日本戦争を終結させるための切り札として原爆が位置付けられました。日本は、本土決戦も止む無と考えている情報のもと、日本本土への上陸作戦で失われる米軍兵の命を救うために、日本の一般市民を衝撃的な数で殺し、日本の戦意を失わせることを目的に、原爆使用を決めたことになっています。映画の一節にも、『必要な原爆は2個、一発目は原爆の威力の証明。二発目は継続的に使用可能なことを示す』というものでした。論理的には、理解はできますが、そのために10万人以上の罪の無い市民が殺されたのかという悲惨を起こしたことは理解できません。
 映画でも、広島で犠牲20万人、長崎で犠牲7万人とされていますが、その数字だけで実際の惨状は描かれていませんでした。加えて、原爆の使用自体のもう一つの目的は、ソビエト連邦に対するデモンストレーションであり、アメリカの得た原爆の力を鼓舞するものでした。オッペンハイマーらエンジニアは、自分たちが完成できたのでソビエトでも原爆は製造可能であり、原爆で対抗していくことの危惧を表明していますが、アメリカ政府は、これを聞き入れることはありませんでした。また、映画の一節で、原爆の使用を、連合国であるソビエトに連絡する場面が描かれていましたが、『スターリンから日本に落とせ』との連絡があったとされています。日本人としては、憤慨の限りです。
 実際に原爆が使用され広島、長崎に多大の犠牲者が生じたことに対して、オッペンハイマーは、その原爆の威力と惨劇に恐れを成し、大統領との面談の席で、原爆の使用の結果を受けて、責任に苦しむオッペンハイマーの面会に際し、「大統領、私は自分の手が血塗られているように感じます」とい言ったところ、大統領は、「恨まれるのは、開発者でなく、判断を下した大統領本人である」と言い、更に、オッペンハイマーを追い出したのちに、「こんな泣き虫は二度と連れて来るな」の発言が印象的でした。政治というものは、結果を、自分の本位に解釈し、策定した政策を実現するための手段を選ばないということが痛感されました。実際には、選挙民の意向に答えることが政策の決定要因ですが、選挙民の意向を左右させるのも政治家の力であることは間違いありません。プーチンによるウクライナへの侵攻、イスラエルによるパレスチナへの攻撃も、ある側面では、選挙で多くの指示を受けるための動きであることを忘れてはなりません。
 映画の中でオッペンハイマーの学生時代からマンハッタン計画に参画し、ロスアラモスでの原発開発へ従事する様子と、その後トルーマン大統領面談と最後のエンリコ・フェルミ賞を受賞する場面までの流れは、ほぼ、時間の流れと伴に描かれていますが、この流れの中で、以下の4つの場面が、錯綜します。「プリンストン高等研究所所長への召喚でルイス・ストロースとアインシュタインと会う場面」、「アイソトープをノルウェーに輸出する公聴会でルイス・ストロースを揶揄する様な場面」、「ストローズが水爆開発を推進するためにロスアラモスの内部からの情報漏れを議論する場面」、「狭い聴取の場で忠誠心、共産党との係わりを詰問にさらされる場面」及び「白黒のアメリカ議会のストローズの米国商務長官の任命に際する公聴会場面」です。それぞれ、オッペンハイマーの人生では、大きな意味を持つ場面です。何れも、オッペンハイマーとルイス・ストロースとの確執が描かれており、本映画の後半の骨子を構成するものでした。
 上記の最後に描かれた公聴会場面で、採決が行われた結果をレビューする時に、ジョン・F・ケネディの名前がわざわざ出てきたのですが、私にはこの意味が分かりませんでした。アメリカでは、ケネディの名前のインパクトは、いまだに大きいのでしょうか?
最後場面「エンリコ・フェルミ賞を受賞する」で、オッペンハイマーを始め、参加している科学者が、頭の毛が薄子なることを中心に、年を経た様子が描かれていますが、年の取り方が非常にリアルで、ビックリしました。
さて、この映画「オッペンハイマー」では、結局何が言いたかったのか? 実は、見る前は、原爆の悲惨さや開発者の悲哀を描いたのかと思っていましたが、鑑賞後は、権力の横暴、政治の汚さを描いたのかとも感じた次第です。政治権力や世の中の大きな潮流の中では、原爆開発やその使用で何万人も殺害されても、政治、権力、主導権の流れを掴むための一手段でしかないとのことだったのでしょうか? 即ち、プーチンのウクライナ侵攻、ハマスのテロを発端としたイスラエルのガザ侵攻そして危惧される中国の台湾奪取の危惧も、政治闘争の一端に過ぎないのでしょうか?


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