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「挂甲の武人」6兄弟登場        国立博物館特別展HANIWAより

 先日、東京国立博物館の特別展「HANIWA」に行ってきました。何時もは一堂に見ることの出来ない特徴のある埴輪が、全国から集合していました。展示埴輪は、どれも興味深く、目をみはるばかりでしたが、やはり今回の主役である「珪甲の武人」に関して触れさせて頂きます。
 「挂甲の武人」の埴輪は、古墳時代の武人を模ったもので、像の高さは130㎝程度、幅が40㎝位の小学校の低学年生位もある全身像です。頭部に頬当(ほおあて)の付いた冑(かぶと)をかぶり、胴には小札(こざね:小さな鉄の板)を組み合わせた甲(よろい)をまとっている様子を模しています。肩部には肩甲(かたよろい)をかけ、また、両腕には籠手(こて)をつけ、更に、大腿部にも小札製防具を巻き、脛にも小札製の臑当(すねあて)を着けて完全防備の有り様です。弓や刀も装着しており、完全な武人としての装備を有しています。今回の特別展では、弓や刀の装備状況が若干異なっている「挂甲の武人」の6体=六兄弟が一堂に会した点で、非常にエキサイティングです。私も、これまでは、「挂甲の武人」は一体のみであると思っていましたので、基本デザインが同じ埴輪が5体(6兄弟の一体は、デザインが異なっています。)も存在していることを知りませんでした。

「挂甲の武人」の6体=六兄弟

 6兄弟のすべてが群馬県から出土されており、①~③及び⑤の4兄弟は群馬県太田市出土で、④は群馬県伊勢崎市、ちょっと異風を放っている⑥に関しては高崎市の出土とされています。①及び②の武人は、右手は腰に帯びた大刀に添え、抜刀の構えを取っています。また、左手に弓を持っています。背には鏃(やじり)を上にして矢を収めた靫(ゆき)を背負っています。③、④及び⑤の武人は、右手は腰の矢袋に添えられ、左手に弓を持っています。⑥の武人は、冑(かぶと)の頭頂部に飾りと思われる筒が付けられています。武人埴輪がかぶる冑としてはあまり類例が無いようです。また、脇差は、頭飾りを持ったとも思われる長い刀で、他の5兄弟とは異なっていることから、首長である被葬者本人を表している可能性も指摘されています。
これら6兄弟が出土した群馬県のこの地区では、ヤマト朝廷の本拠地である奈良盆地以外では、吉備(岡山県)に並んで巨大前方後円墳が盛んに築かれていることが知られています。これは、蝦夷(東北)への境界に位置し、ヤマトが進出する際の、人的資源や物資供給の拠点として重要な地域であったことによると考えられています。古代東国の大きな首都であったかもしれません。5世紀前半にはついに、東日本最大となる全長が210mの太田天神山古墳(群馬県太田市)が築かれていますし、この地域全域を掌握する大首長の存在が想像されます。その大首長に仕え、構成された軍隊を象徴し、挂甲をまとう武人の埴輪が作成されたのではないでしょうか? 「挂甲」とは古代の甲よろいの一種で、革や鉄板の小札を革紐や組み糸で綴じ合わせ、身体を防御する騎兵用の武具のことです。実物としては、千葉県木更津市の金鈴塚古墳から出土され、下記の様な実際の鉄兜と鉄板の小札が出土しています。金鈴塚古墳の記事は、複数書かせて頂いていますので下記のリンクをご参照ください。

金鈴塚出土の冑と鉄小板

 6兄弟の「挂甲の武人」では、粘土で細部まで精緻に武具が表現されていることが非常に印象的で、首長と武人の偶像の埋葬と言う形では、秦の始皇帝が葬られている始皇帝陵の兵馬俑が思い浮かびます。死後の世界でも、皇帝を守るべく軍隊の偶像が埋葬されたとも考えられていますし、有していた偉大な権威を象徴していたとも考えられます。時代的には大きな隔たりはありますが、この流れを汲んでいるのではないかと考える次第です。
 今回の特別展のもう一つの目玉が、「挂甲の武人」の彩色の再現です。

彩色再現の「挂甲の武人」

 武人埴輪の表面には、かつて彩色が施されていた痕跡が残っていたことから、この痕跡を基に科学分析を行い、白、赤、灰色の3色が使用されていたことが判明したそうです。再現では、当時の技術や材料を可能な限り再現して彩色が行われた様です。即ち、古代の彩色技術や美的感覚が現代に蘇えったことになります。これまでは、茶色一色のイメージでした埴輪も鮮明な印象になってきます。色は、武人の地位や役割を象徴するものであったと考えられているとのことです。赤色は力や勇気を象徴し、白色は純粋さや神聖さを表すとされています。これが古代の感覚でしょうか? 現在の感覚と大きく変わらない様に思われます。
 ここで、話は大きく変わりますが、「挂甲の武人」を形態のモデルとしたのが、映画「大魔神」です。1966年に大映(現・KADOKAWA)が製作・公開した特撮時代劇映画シリーズで、私も大変好きな映画で、全シリーズ見ていました。『大魔神』(1966年4月17日公開)、『大魔神怒る』(1966年8月13日公開)、『大魔神逆襲』(1966年12月10日公開)と一年間に3作も作られています。「大魔神」シリーズは、戦国時代を舞台に、悪政に苦しむ民衆を救うために復活する巨大な守護神「大魔神」が描かれています。民衆の守護神が、「珪甲の武人」を形態のモデルとした数メートルを超える偶像で登場します。現在も調布市の映画スタジオの前に設置されています。

映画「大魔神」の守護神形態

悪政や陰謀により民衆が苦しむ中で、民衆の祈りや願いに応じて、温厚な殻を破る形で、下の写真の様な大魔神が現れます。変身は、両腕を顔面の前で拳を合わせ、上方に開いていくと、鬼の形相に変わり、この豹変した「大魔神」の圧倒的な力で悪人を倒し、平和を取り戻すといったストーリーです。

映画「大魔神」の怒りの形態

「大魔神」シリーズは、この古代の「挂甲の武人」を形態のモデルとした独特の設定と迫力ある特撮シーンで人気を博し、日本の特撮映画の代表作の一つとなりました。私も、興奮して見ていましたし、以前は、年末の風物詩として、テレビで一括放映されていました。
 この映画の根底には、「挂甲の武人」的な形態が、日本人の守り神的な印象を与えることを利用しているのではないかとの分析です。先にも触れたように、武人埴輪は、埋葬された人物を守護するための存在として副葬されたのでしょうから、現代の日本人にとっても、守り神的な印象を与えるのではないでしょうか。日本の神話や伝説には、武装した神々や英雄が登場しています。これらの物語が、武人埴輪の形態と結びつき、守り神的なイメージを強化している可能性もあります。特に、「挂甲の武人」埴輪は、威厳ある姿や緻密な装備表現が見る者に強い印象を与えると思います。その鎧や武器を持った姿は、力強さや守護の象徴を放っていますが、一方で、お顔は簡素で、穴を開けただけの切れ長の目には、当然眼球は無く、また、口元は微笑みも伺える様子で、見る私たちに、柔らかな心持を与えています。この装備と顔の対比が、不思議な郷愁を生み出しているのかも知れません。もし許されるのならば、家に一体欲しくなってしまいます。それにしても、「挂甲の武人」一体を作成するのに、どの位の人と時間を掛けていたのでしょうか? 埴輪の作成には、専用の登り窯を有した工房が構築されて、職人集団が存在していたことが知られていますが、別の記事(下記)にも触れていますが、群馬のこの地域の6世紀作成の埴輪の数、種類、完成度は、他の地区に比例の無いものでして、「挂甲の武人」もこの文化の集大成的な作品であると考えます。下記の記事は、今回の特別展が始まっていると勘違いして、半年前に国立博物館に行ってしまった時の記事でした。


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