短編小説|契約の証
『あなたがずっと護ってくれるの?』
それは、古い約束だった。
この世に生き残った、ひとりの少女。火の手が上がる魔王城で逃げ遅れた彼女の周りだけ、景色が違って見えた。彼女との出会いが、俺の運命を変えた。
この少女の命の灯火を消してはならない。自分の命を懸けてでも護り抜かなければ。
犯した過ちを拭い去ることはできない。それでも、生き延びることを赦された善意に、少しでも報いたかった。
その思いは二百年経った今でも変わらない。
主に呼ばれれば、どこであろうと馳せ参じる。それが彼女の従者となった俺の仕事だからだ。
入室の許可を取り、部屋の中に足を踏み入れると、十五、十六歳ほどの少女と目が合う。大人びた瞳は細められ、艶を帯びた唇が開く。
「今から、この部屋の装飾を白に変えなさい」
おおよそ予想していたとおりの内容に、やはりか、と思いながら言葉を返す。
「……姫。装飾をすべて変えろという命令は、今月で五回目です。王からも無駄な労力は避けよとのお達しです。わが国は、近隣諸国からの攻撃に備えて、現在軍備を強化しております。少しはお控えください」
「嫌よ、黒の装飾は厭きたの。今度は白がいいわ。……それに、リティーツェル。あなたは誰に仕えているの?」
「魔界を統べる魔王の姪であられる、ベルリーナ様でございます」
よどみなく答えると、姫は満足そうに不敵な笑みを浮かべた。
漆黒の長い髪を手の甲で背中へ追いやり、長椅子に座る主は足を組みかえながら言い放つ。
「では、わたくしの命令に従うのは当然でしょう? ならば、さっさと行動で示しなさい」
「御意に」
断ることは許されない、それが昔からの侍従の関係を表していた。
俺は下された命を果たすため退室の礼を取り、部屋を後にする。扉の閉まる音を背中越しに聞き、薄暗い廊下を足早に歩く。
主の傍若無人のワガママぶりは、年月を重ねるごとに増していた。その内容は自分を困らせるものばかりだったが、それが彼女なりのコミュニケーションの取り方らしい。
家族からの愛に恵まれなかった姫は、不器用に育ってしまった。
その原因の一端は、護衛兼お世話係だった自分にも当然ある。だが、接し方に問題があったとはいえ、時間を巻き戻すことなどできない。ともなれば、自分にできることといえば言われたことをこなすことのみ。
詰め所となっている角部屋に突き当たり、ドアを片手で開ける。
「姫の部屋を白一色へ変更だ。今すぐ取りかかってほしい」
「はっ、かしこまりました」
部屋にいたすべての者が慌ただしく出て行き、それを横目で見送る。バタバタと足音が遠くなった頃、不意に優しい風が頬を撫でた。
窓は空気の入れかえのために開かれたままだったらしく、カーテンがふわりと揺れていた。
外から流れてくる風に誘われるように窓辺に近寄ると、視界の端で何かが光った。不思議に思っていると、城の横に広がる森全体をまばゆい光が包み込んでいた。だが、瞬きをした後は、いつもの風景が目の前に広がっていた。
(今のは、目の錯覚……?)
否、違う。先ほどの光は窓から差し込まれたものだ。そう確信すると、事の真相をはっきりさせるため、俺は城を出た。
樹木が茂る森の中をひとり歩く。
頭上には、烏の鳴き声とバサバサッという羽音が絶えず聞こえていた。足元に散らばる木の枝を避けながら、奥へと進んでいくと白いものがひらりと舞い降りてきた。
「……これは、羽……?」
烏のような黒く大きな羽根ではなく、純白の小ぶりの羽根だった。羽根の主を探すと、その場所はすぐに知れた。
一メートルもないところに、白い翼を二つ生やした小さな生き物がぐったりと倒れていた。
間近で見るそれは、古い書物の中でしか見たことがない空想上のものを連想させた。実際に目の前にあるのは、『天使』と呼ばれる生き物と酷似している。
天使といえば、不老不死の妙薬になるという言い伝えがあるのだが。
「…………」
魔族がいかに寿命が長いといえども、訪れる死からは避けられない。
けれど、それは知恵を持つモノが持つ判断。食欲を満たすだけの餓えた魔物からすれば、格好の獲物にすぎない。
だが、自分はどちらの欲も持ち合わせていなかった。食料は城で暮らす身であれば困ることなどないし、生にそれほど執着があるわけでもない。
ならば、自分ができることと言えば、ひとつだけーー。
◆◇◆
背中越しに物音がしたので、ゆっくりと振り返る。
タオルを何枚か敷いた机の上で眠っていた小さな体は身を起こし、周囲を忙しなく見渡していた。
「ああ。目が覚めましたか」
「だれ、だ……?」
掠れた声音はまだ幼い高いトーンだった。
しかし、開かれた双眸は意志の強い灰色の瞳をしていた。
肩につくまでの金髪がさらさらと揺れ、耳元から編みこまれた三つ編を結うリボンがメルヘンチックな匂いを漂わせる。
「俺の名はリティーツェル。周りからはリーと呼ばれていますね。それで、君の名は?」
できるだけ優しく問いかけると、天使は憮然とした顔で答えた。
「……トパーズ……」
「そう。天使が魔界へ降り立つとは何千年ぶりでしょうか」
「銀髪に銀色の瞳、あんたは何者だ?」
「そんなに怯えなくても、俺はその辺の凶暴な魔物とは違います。もしそうであるなら、傷だらけのトパーズにまじないをかけたりしないでしょう」
そう言うと、トパーズと名乗った天使は自分の体を見回した。
けれど、特に異常がないことが分かると、あからさまに安堵のため息をもらした。
それから灰色の瞳がまっすぐと自分を射る。
「あんたが僕の命を助けてくれたのか」
「はい。傷は治ったと思いますが、どこか痛むところはありませんか?」
しかし、その顔はなぜか曇っていた。
傷が治ってむしろ喜ぶところだと思うのだが、それともまだどこか痛むのだろうか。
そう危惧していると、トパーズはおもむろに口を開いた。
「魔界はおっかない奴らばかりが闊歩している。天使であれど喰らい尽くす……そう習ったが」
「否定はしませんよ」
石のように固まった天使に苦笑いしながら、言葉を付け足す。
「しかし、そうですね。魔物だってすべてが同じとは限らない。知力が長けたモノもいれば肉食とも限りません」
「僕がいたのは精霊と天使が共存する精霊界だ。……ここは本当に魔界なのか?」
疑いの目に頷きだけで是と返すと、重いため息が聞こえてきた。
「僕自身が魔界へ来たいと思って来たわけじゃない。目を開けたらお前がいた」
「そうですか。ですが、簡単に異世界へ来るなど普通はできないでしょう。そこには相応の、何かきっかけがあったはずです」
古い書物にある伝説を信じるのであれば、空間のねじれはそう頻発して起こるものではない。
ならば当然、そこには何かしらの理由があったはず。
トパーズは俺の言葉を反復して記憶を思い返しているようだった。
「きっかけ……」
「例えば大事な祭壇を壊してしまった、とか。力の均衡が何かの衝撃で崩れて、時空の歪みを引き起こした。それならば納得できます」
考えられる仮説を挙げると、トパーズは次第に眉根を寄せていた。
「心当たりがあるかもしれない。やっぱりあのとき、封印されていた祠に行ったのがいけなかったんだ……。もう元の世界には戻れないってことか」
「それはまだ分かりませんが。とりあえず、トパーズはここにいてください。外に出れば危険ですよ」
言いながら立ち上がると、トパーズの背中についた純白の羽根がばさりと広がり、目の前に立ちふさがるように行く手を塞いだ。
「待て、僕にはまだ用事がある。命を助けてもらった礼だ、願いを言え!」
傲慢な物言いだったが、小さく可憐な姿で言われてもあまり迫力がなかった。
むしろ、そんな姿さえ愛らしく見えてくるのだが、見つめてくる視線は揺るぎなく、それは徐々に睨み付けるようになっていた。
「俺に願いなど、特にはありません」
「いいから言え! 今日の夕飯は何がいいとかとにかく言え、今すぐ!」
急かされるほど思考がうまく働くはずもなく。
「考えておきます。俺はそろそろ仕事に戻らないといけませんから……」
「僕も行くぞ」
想像していたとおりの答えに、戸棚にある小瓶を取り出して言う。
「……仕方ないですね。これを自分の体に振りかけてください。一定時間だけ姿を消せる効果があります」
◆◇◆
城に戻ると、鬼気迫った顔で侍従頭が駆け寄ってきた。
「リティーツェル! どこに行っていたんだ、一大事だ!」
「何事ですか?」
「ベルリーナ様が突如苦しみだして、……とにかく様子がおかしいんだ。早く来てくれ!」
ただならぬ様子に、嫌な予感が頭を過ぎった。
不安を拭うように早歩きだった足は次第に小走りになり、目的地に着いたときにはだいぶ息が上がっていた。
ドアをノックする前に、深呼吸をして乱れた呼吸を落ち着かせた。
「失礼します」
部屋の中は静まり返っていた。
いつもならば怒ったり笑ったりしている姫の声が一番にするのに、今は静寂が部屋を支配していた。それは異様な光景に違いなかった。
天蓋つきのベッドへ向かい、そこへ横たわる主の姿を見て愕然とした。
「……これ、は……」
自然ともれたつぶやきに答えたのは、ドア口に背中をもたれていた侍従頭だった。
「まるで死人のようだろう。先ほどまではお元気でおられたのに、いきなり苦しみだされたのだ。時間が経つにつれて血色もなくなっている。原因は分からないが、このままではベルリーナ様の命が危うい」
ベッド脇に控えていた白髪の医師をすがるように見つめると、彼は力なく首を横に振った。
どうやら原因は毒ではないらしい。
そうなると、考えられるのはひとつしかない。
俺はこみあげる怒りを抑えながら、侍従頭、医師、メイドを順番に見やる。
「もしかしたら……ですが。これは先日城から追い出された、オルテス貴族による復讐かもしれません」
「どういうことだ?」
「彼らは元は呪術に秀でた貴族です。今回の追放で恨みを持ったとしても何ら不思議はないでしょう。ただ、彼らは魔王の報復を恐れた。そして、復讐の矛先を姫君に向けた……そう考えてもおかしくはないのではないでしょうか」
考えられる仮説を挙げてみると、ううむ、と唸る声が横から聞こえた。
「だとすれば、これは厄介の呪いだな……」
「何か、心当たりがあるのですか?」
「ああ。これが呪いだとすると、『死への誘い』という禁忌の魔術が使われた可能性が高い。苦しみを与え、衰弱死させる呪いだ。この呪いは術者を殺めても、解くことはできない。それどころか、解呪しようと姫に何かすれば、反動で死に至る可能性が高い。……どうすればいいのだ」
落胆する声に返事をする余裕はなく、俺は踵を返す。
「……書物庫へ行ってきます」
「おい!? ちょっと待て」
制止の声を振り切り、俺の足は城の地下を目指していた。
薄暗い石畳の階段を下りた先には、木製の扉が行く手を塞ぐ。トパーズが後ろにいる気配を感じ取りながら、ドアノブに手をかける。
ギィギィと木が軋む音がして、目の前に暗い闇が広がる。
手探りで壁伝いにランプをつかみ、ポケットからマッチを取り出し火を灯す。淡い光が天井を照らし、開けっ放しにした扉の影が細く伸びていた。
「何を探しているんだ?」
トパーズの質問に、素直に答えるべきか一瞬迷う。
ランプを机の上に移し、真ん中の本棚からタイトルを探しながら口を開いた。
「以前、ある文献を読んだことがあるのです。そこには解けない呪いを自分に移す術を」
「は?……そんなことしたらお前がっ」
「あぁ、ありました。確かこの本に書いてあったはずです」
灯りの近くに戻り、昔の記憶を頼りにページを繰る。章のタイトルをひとつひとつ確認しながら慎重に文字を目で追う。
やがて探していた記述に辿り着き、読みながら目を剥く。必要とされる材料のほとんどは、すぐには手に入らないものばかりが羅列されていたからだ。
(なんていうことだ……せっかく方法を見つけても、これでは間に合わない)
絶望がため息となって外へと出る。
しかし、すぐ後にもうひとつの打開策に気がついた。
「トパーズ」
「……なんだ?」
「願いを、と君は言いましたね。そこに書かれている内容をやったとしても、その前にベルリーナ様のお命が尽きてしまいます。ですから、呪いを俺に移し変えてください」
呪いを解く方法はない。術を解こうと干渉すれば、主の命が危機にさらされる。
だったら、呪いごとを受け止めるしかない。
「はぁ!? お前、自分が何を言っているのか分かっているのか!?」
「事態は一刻を争います。冗談で言っているのではありません。あの呪いを解く術は、はじめから存在しないのです。だったら方法はひとつだけでしょう?」
藁にもすがる思いなのだ。俺は無言で見つめ、トパーズへ願いを託す。
長く重い沈黙の後、小さな天使は顔をしかめたまま言う。
「それが……望みだというのなら。だが、この狭い場所では危険だ。僕にも何が起こるか分からない。やるのなら城の外だ」
◆◇◆
俺たちはひっそりと裏口から城外へ出て、河辺へと来ていた。
トパーズにかけていた姿消しの粉もすでに効力を失っていて、金髪が日光に照らされ、きらきらと輝く様子はいっそ神々しかった。
「本当にいいんだな?」
「もちろんです」
「……よし、行くぞ」
かけ声を合図に突如、赤い魔方陣が地面に大きく広がる。
その中心にいた俺は吹き上げてくる熱風にさらされながら、必死に飛ばされないように堪えた。
魔方陣から赤い光がほとばしり、自分の体に螺旋状に絡みつく。
身動きも取れず、なされるがままにしていると、今度は巻きついていた光が一斉に放出していく。
強烈な眩しさに思わず瞼を閉じた。
辺りが静かになった頃、おそるおそる目を開ける。そこには見慣れた光景が広がり、地面もただの草原になっていた。
(成功……したのでしょうか……)
体中に疲労感はあったが、まだ辛うじて動けるようだ。
「トパーズ……?」
横にいたはずの姿がなくなっており、ふと視線を下へやると、地面にうずくまっていた。
「どうしたのです、傷が開きましたか!?」
「……ち、違う。お前の願いを叶える代わりに、僕の命が尽きるんだ。これが精霊界の決まりごとだから」
耳を疑う言葉に、トパーズの顔をまじまじと見つめることしかできなかった。
「リティーツェルが悲しむことはないだろ。あんたは瀕死の状態だった僕を助けてくれた。それは天使界においての契約成立の証だ。命を助けてもらった者に、天使はひとつだけ望みを叶える。その引き換えに自らの命を落とす。……ただ、それだけだ」
声はひどく弱々しく、意識を集中しないと聞き取れないほどだった。
俺はできるだけ優しく話しかける。
「君はそんなこと、一言も言っていなかったでしょう」
「こんな格好悪い話、できるわけないだろ。それにいいんだ、助けてくれたのがあんたで良かったと思ってる。今さら後悔なんてするわけ、ない……だろ?」
言い終わると同時に、森を覆ったあのときの光と同じ輝きがトパーズを包み込む。
そして、光の欠片が弾けたと思ったときには、彼の姿は忽然と消えていた。
まるで最初からここには存在しなかったように。
ぼやけていく光を手でつかもうとするが、指の間を透き通るだけでやがて見えなくなった。
「……っっ……」
感傷に浸る間もなく、全身に鈍い痛みが走る。
体力や気力がまるごと吸い取られているように抜けていき、膝ががくんと折れる。
そして、胸倉を力なくつかんだまま、前のめりに倒れこんだ。
意識が混濁していく中で瞼を閉じると、ベルリーナ様の顔がにじんでは消えていく。
「俺も、ここまで……っ……のようですね」
つぶやきに返ってくる言葉などなく、現世との別れも秒刻みで近づいていくのが分かった。
ふと、くすぐったい感触に閉じていた目をうっすらと開ける。
頬を撫でていたのは、風になびく野草だった。さわさわと揺れる葉の向こうには、主が眠る城が見える。黒くそびえたつ城は魔王城にふさわしいオーラを放っている。
はるか昔、魔王への反逆軍に加担していた過去を思い出す。
部屋の奥で縮こまっていた小さな姫君を見た瞬間、俺は剣を床へと捨てていた。あの瞬間、彼女を護らなければいけないと思った。
(だからもう、心残りはない……)
そう思いながら、意識は深い夢の中へと堕ちた。