初個展「Wakan / Soul Is Film」に、僕は賭けているものがある
写真と映像インスタレーションで一部屋ずつ使い、アマゾン熱帯雨林での経験を、10月に全国で公開予定の映画『カナルタ 螺旋状の夢』とは別の視点からとらえ直す試みをしている。ところで、僕は生粋の写真家ではない。一応プロフィール上は「映像作家・文化人類学者」と名乗ってはいるけれど、最近は「映画監督」と呼ばれることも多い。むしろ8割方はそう呼ばれている。自分で名乗ったことはないのに、自然にそうなるのだから不思議だ。
正直、そのどれもがしっくりとは来ていない。けれど、その全部が好きで、どれもが自分の表現を可能にするものだと思っている。今のところ。そんな僕にピッタリなチャンスが、縁あって降ってきた。それが今、東京・根津のキュラトリアル・スペース「The 5th Floor」で開催中の初個展「Wakan / Soul Is Film」(7月24日まで、8月1日まで会期延長の可能性あり)だ。
個展詳細:https://ja.the5thfloor.org/wakansoulisfilm
美術手帖掲載記事:https://bijutsutecho.com/exhibitions/8302
出展映像ティザー:https://vimeo.com/575067422
映画の全国公開を間近に控えた今、クラウドファンディングを経て配給会社を通さずに自分で配給業務の全てを行なっている僕は、正直ただでさえ火の車だ。より多くの劇場で公開させてもらうための営業電話、各種メディアへの働きかけ、フライヤーやパンフレットに掲載する内容や文章の構想・作成、それに向けた諸々のリサーチ、宣材を具現化するためのデザイナーとの綿密な協働、劇場や関係者の方との多くの細やかな事務連絡や書類管理、クラファン特典の構想・作成、そして最新のiMacを使っても非常に時間と手間のかかる上映素材の作成。毎日目が回るくらい、やることが多く、繊細なスケジュール管理が求められる。そしてどれだけやっても、この映画を多くの人に届けたいと思えば思うほど、やれることは無限にあり、身体がいくつあっても足りない。この投稿を書いている間にも、止めてしまっているメールや本当はやれるはずの作業のことが頭にチラつく。
それでも、僕は今回の個展に賭けている。他のやるべきことを一旦停止させてでも、アマゾンでの1年間で撮りためた膨大な数の写真と改めて向き合い、展示の構想を練り、点数を絞り込み、編集を重ね、プリントラボで話し合いながら印刷した。さらにこの個展のために新作の映像作品まで作った。この映像作品は、アマゾンで僕が撮影した約35時間の動画を改めて再解釈し、映画『カナルタ』で未使用の部分を使って製作した。
そこまでしてこの個展に賭けているのはなぜかというと、映画『カナルタ』、そして僕のアマゾンでの経験が、あまりにも汲み尽くせないものだからだ。僕はどうしても、この経験を映画の話で終わらせたくなかった。この映画に僕は文字通りの命をかけたけれど、この経験を伝え、鑑賞者の方々の「腑に落とす」には、一生では時間が足りないとすら思っている。
僕は映画という芸術をシンプルに愛している。観てくれた方たちが一つの作品として小さくても何かを持ち帰ってくれたらそれだけで嬉しいし、何も言うことはない。でも同時に、心の奥底では「それで終わってたまるか」とも思っている。
僕がアマゾンで目撃したのは、現存しているどんな書物や資料や映像をもってしても知ることができない世界だった。それはいわば、「科学」や「歴史」と呼ばれるものが触れられるか触れられないかのところで、触れようにも触れ方がわからず、仮に触れられたとしても触れたことに気付かないようなものだった。マンチェスター大学の博士課程で、限界まで速読のスキルを上げながら(そうでないとプログラムの要求に到底追いつけない)毎日取り憑かれたように論文や書籍を読み漁り、それでも膨らむ一方の読書リストに絶望を繰り返す日々を経たあと、そこから得た知識から想像できるものをはるかに越えた現実に現地で遭遇してしまったのだから。アマゾンには、いまだ人類に名前を付けられたことのない植物や虫が数多く存在する。細菌類なども含めれば、それはほとんど別の惑星と言ってもいいほどの世界だ。僕が出会ったのは、そんな土地で何千年ものあいだ独自の生き方で命を紡いできた人たちだった。
もっと、それがいかに驚異的で、とんでもないことで、未知(彼らにとっては既知なのだけど)の可能性の宝庫なのかを伝えたい。でもそれはとても、とても難しい。アマゾンから生還(そう、帰国じゃない、生還だ)してからの数年間、僕はそれをどうやって伝えていくべきかをずっと悩み考えてきた。この地球で、そもそもスニーカーを履きながら地面を歩けるという事実が、どれほど異常なことなのか。太陽以外の光の存在が、どれほど人間を瞬時に変えることになるのか。血を見ずに肉を食べられるという状態が、どれほど感性に影響を与えているのか。「論文にすればいい」話ではなく、もっと奥深くに眠る感覚の問題だと思っている。
そもそも、学術界自体が世界的に硬直化してしまっている傾向にあることで、流儀に添わない視点はほとんど受け入れられない現状がある。かと言って、バラエティ番組の企画のように面白おかしくトンデモ話のネタを語りたいわけでもない。一方で、「アマゾン」というワードに中途半端に手垢がたくさんついているせいで、どうしても「アマゾンで映像撮ったの?ああ、○○みたいな感じ?YouTubeにあがってるよね」みたいな反応も多い。色んな意味で、僕の一連の活動や落とし込んでいる表現には前例がない。自分が唯一無二だというアピールをしたい気持ちは毛頭なく、むしろ似たようなことを考えたりやっている人がいるなら切実に今すぐ出会いたい。しかし出会えない。一言で話が通じるならそれが一番いい。どんなシュートを打っても入るなら、パス回しなんてせずに直接シュートするのが一番早い、とマンチェスター・シティの名監督グアルディオラも言うだろう。でも残念ながらそうはならない。特に、アマゾンの話を、僕の歩んできた文脈を踏まえてする場合。
じゃあどうするか。色んな角度から僕が見たアマゾンを、一つ一つに全てを賭けて表現し続けるしかない。クラスターや人脈や業界やカテゴリーやジャンルで分け隔てられてしまっている現代に生きる我々の、この現状を一旦は受け止めた上で、異なる入り口を作るしかない。別々の入り口から僕の表現に興味を持ってくれる人たちに、「いつの間にか同じ空間にいた」という体験を届けるしかない。前例がないものが受け入れられるには、「時の流れ」と「前例がないものにさらに前例がないものを重ねる」ことが必要だ。
このプロセスには忍耐が必要だし、映画の興行だけを考えたらマイナスな面もあるととらえる人がいるかもしれない。でも僕は、もっと先の景色を見ている。現代アートという「アウェイ」(そもそもどこがお前のホームなんだ、という疑問はさておき)のフィールドに足を踏み入れ、写真展の定石からはみ出た展示の組み方を試みているのも、その景色を見ながら歩いていたら自然にそうなったからだ。どんな未踏の原生林でも、人が歩けばそこに道はできる。これも僕がアマゾンで学んだ大切なことの一つ。個展開催に関わってくれている全ての人に、そして展示を見に会場に足を運んでくれている方々に、感謝。