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想いが人を動かす

「想いが人を動かす」

 そう語っていたのは、昔勤めていた会社の社長であった。
 あんなにどうしようもない上司は後にも先にもいないけれども、この言葉だけは、まるで使っても減らない退職金のようにわたしの資産となっている。

 そこは社員6人ぐらいの小さな便利屋で、常に常に常に求人していた。そして、常に常に誰かが辞めたがっており、実際たまに消えていた。
 隣はラブホ、1階は具体に何を揉んでいるのかよく分からないマッサージ屋さんという雑居ビルのワンフロアが、会社のオフィスであった。当市でちょっと地域事情に詳しい人なら「ああ、あそこね」と言葉を濁す一角ではあるものの、わたしとしては、通勤ルートは好きだった。

 緑豊かな兼六園下から石川門を自転車で抜ける。21世紀美術館を左手に見て柿木畠、木倉町と、ごはん屋さんのにおいを食べつつ走る。窮屈でノスタルジックな繁華街を抜けると犀川に出る。広々と緑地に整備された河川敷のところどころに、四角く切った花壇があった。地元の商店主を中心としたまちづくり団体の皆さんが植えたビオラだのサルビアだの、四季折々に手入れが行き届いていた。ガチ勢ゆる勢それぞれに自分のペースで走るランナー、犬の散歩のシニアもいれば、川沿いにずっと下って日本海まで行っちゃうようなロードバイクの姿も見えた。
 こまちなみと称されるしみったれた下町エリアで暮らすわたしにとって、ママチャリのペダルを踏みしめ眺める市内中心部の賑わいも、太陽あふれる犀川の広がりも、日々新鮮な楽しみだった。

 社長は小柄でぷよぷよした肉質の中年男性であった。私が出会った頃には既に前歯が片方欠けていた。おまけに残されたほうの前歯はひどい出っ歯で、会社ホームページ用のキメ顔写真をよく見ると、閉じた唇から前歯の先がうっすらのぞいて見えた。前歯のことは治さなくちゃとときどき言ってはいたものの、そこをどうにかしたからといってビジネスシーンでなんらプラスがあるわけでない。そんな職種を渡り歩いてきた人だ。
 浅黒く下膨れの輪郭に黒縁の丸眼鏡、くりくりと黒目がちな瞳、丸坊主。会社では常に作業服だったが、飲み会のときはベトナムの観光ガイドみたいなファッションで現れて、ちょっと驚いた。何とかいう黒紙で巻かれた強いたばこを四六時中ふかしていた。
 アウトローというほどの風格もない。どちらかというとベビーフェイスで、お世辞にも美男子にとは言えないが、甲高い声とコミカルなしぐさが妙にマッチして、キュートといえばキュートであった。
 社長の友人である経営者たちからはアイデアマンと言われていたが、要するに単なる思いつきをぱっと事業化する人だった。ひらめきだけで周囲を巻き込み、見積を出させ、企画書を書かせ、名刺を作らせ、そして、パンフを刷ろうという段の前には、新たな別のトラブルが会社や社長に発生しては、立ち消えになるのであった。
 順風満帆とは全く言えないわが人生においてすら、あんなに大変だった時期はそうそうない。社長は大きな赤ちゃんだった。ギャーギャーわめいて(文字通りわめくのだった)、「お前だけが頼りなんだよ」と甘えてみせたり、時折ごはんをおごってニコッと笑ってみたりすることで、他人を動かす人だった。
 パワハラ、モラハラという言葉は社長のためにある。ただし、セクハラはなかった。

 実際、社長は本当によく大声を出していた。懇意の会社の社長さんたちが「あれさえなければ名社長になれるのに」と、ため息をついていた。今考えたら入社数カ月のわたしが直接それを聞かされるって、よっぽど見るに見かねたのだろう。
 あるとき、出社途中に社長から電話がかかってきた。ちょうど木倉町を自転車で走っていたところであった。
 社長は朝っぱらから大変いら立っていた。用件は、パワハラで病んで退職した女子社員の親が健康保険の延長の申請でクレーム気味に電話をかけてきたとのこと。
 いつもの調子で、電話の向こうから唐突に怒鳴り散られて、わたしは思わず怒鳴り返した。
「朝っぱらからキャンキャンわめくなま! 書類は出したっちゅうとるやろうが! わめいて手続きが早まるわけでもなかろうが!」
 このときが朝で本当に良かった。夕刻ともなれば、飲食のお客さんでごった返すストリートである。これが退社の時間帯であれば、そぞろ歩きを楽しむ人々を、わたしの啖呵で凍り付かせたことだろう。
 社長も社長で、なおもキレ続け、より一層声を高く張って
「おまえ、怒鳴るなま! うるせーげんて!」
「どっちが先に大きな声をだしたんや、ええ? そっちが先やろうが。アタシは社長とおんなじ調子で言うとるだけや!」
 そしたら社長は急に猫なで声で
「ああ、書類出したなら出したでいいけど。確認取りたかっただけやし。ありがとー。マエノ、これから会社やろ? 俺、○時ごろいくし。頼むね ♪」
 以来、退職までの半年、わたしは1回しか怒鳴られなかった(その1回も怒鳴り返した)。

 他の社員もよく怒鳴られていた。
 Yさんというわたしより1~2歳年上のたいへん色っぽい女性がいた。美人で、可愛い声で、仕事もできて、やさしげな物腰の、今思い出しても心がふわっと上がるぐらいに大好きな人である。どういう経緯で入社したのか知らないが、ときどき社長は彼女のことを下の名前で呼んでいた。二人で行動することも多く、夫婦のようなしっくり感が漂っていた。ただし、いわゆる男女の仲のようでもなく、かといって兄妹でも部活の先輩後輩チックでもない。新入社員のすべてが必ず1回は「Yさんと社長はデキてるんですかね?」と聞き、そのたびごとに「知らないけれど、違う気がする」と答えたものだ。
 そのYさんは実によく社長に怒鳴られていた。その場ではただ黙って怒鳴られて、社長が怒鳴り終わると「はい。わかりました」と返事をしていた。社長が怒鳴る用件は、別段Yさんが悪いわけではなかった。時間がないとか、仕事の難易度が高いとか、別のスタッフが役立たずすぎるという理由であった。どうも社長は緊張のあまり内圧が高まり、その圧を大声により体外に発散するタイプの人間だったようである。

 あるとき、社長がわたしに「Yを助けてやってくれ」と言ってきた。だったらまずはいちいち怒鳴るのをやめたらどうよと思ったのでそのまま言ったら
「だけど、マエノは知らんだろうが、××(Yさんの下の名前)だって、すげぇのよ。オレと二人のときは、全然違うから。××はおまえには優しいだろうけど、オレにはすごいよ。キッツい口調で怒鳴ったり、号泣しながら電話かけてきて『会社辞めます!』とか。他の若いスタッフとかにも、すげぇのよ。めっちゃめちゃワーワー切れるんだよ。Yもストレスたまってんのよ。しんどいんだよ。助けてあげてよ。」
 想像つかん。でも、さもありなん。
 わたしだってYさんが大好きなのだ。助けてあげたい。だけど、職分が違うしなぁ。

 そんなある日、会社の電話にYさんへの仕事の依頼が入った。便利屋というのは何でもやるから便利屋なのだ。家出猫の捜索から、庭の草刈り、引っ越し手伝い、エアコン洗浄、不用品引き取りなどの他、建築現場や飲食店の欠員補充を請け負っていた。雑多な仕事がある中には女性限定の仕事も多くあり、それはもっぱらYさんの担当だった。
 そのときの仕事は、IHクッキングヒーターの説明代行であった。当地に支店のない大手住宅設備会社からの依頼で、リフォームなどで設備を入れた個人宅に出向き、器具の取扱いについてお客様にお話をするというものである。お客様のご都合最優先で入る仕事で、Yさんは便利屋の仕事の合間合間にそれをこなしていたのであった。
 わたしが受けたそのご依頼の指定日は、Yさんの公休日であった。「その日はYはお休みです。他の候補日を頂けないでしょうか」とお返事すると、電話の向こうの住設会社の女性は一瞬声を詰まらせて「え、いままで、おたくに電話して断られたことはないんですよ」と、かなり驚いた様子であった。
 ははあ、これか。
 Yさんは、便利屋の休日であっても、他社からの依頼があれば稼働していたのだ。わたしは思い切って言った。
「申し訳ありません。今まではYは会社の公休日でも御社のお仕事をお受けしていたのです。大変勝手申し上げますが、できればYを休ませてやりたく存じます。お手数ですが、お客様にいま一度お日にちをご相談いただけないでしょうか」
「でも、Yさんに断られたことないんです」
「申し訳ありません。わたくしの方でもYに確認してみます。もしどうしてもということであれば、Yに行かせます」
 その30分後、住設会社から再び電話があった。
「お客様にアポを取り直しました。大切なYさんの、大切な休日を奪うわけにはいきませんので」
 わたしは深々とお詫びをと御礼を申し上げて、日程を入れたのだった。
 というか、そもそもさきに先様にYさんのお休み日程出しとけ弊社!

 この件はその日のうちに社長の知るところとなった。社長はどう見てもわめき散らしたいをぐっとこらえて、低い低い声で言った。
「勝手に仕事を断るな」
「だって、しょうがないでしょう。Yさんは休まなきゃいけないんです」
「うちは依頼を断ってやっていける会社じゃねーげんて」
「だけど、言えばずらしてもらえたでしょう。こんなことでは失注しないですよ」
「でもな」
「今までお休みの日だって、そうやって仕事が入ればYさんを呼んでいたんでしょう」
「だけどおまえ、便利屋ってそういう仕事やから」
「そうですか。じゃあ、いいんじゃないですかね。次からおっしゃる通りにしますよ。でもね、それじゃYさんは休んでも休めないの。いつ呼ばれるかと着信音におびえて休日を過ごしていたら、心も頭も休まらないの。そんな日が何カ月も続いたら、そりゃYさんだってイライラするよ。疲れて怒りっぽくもなるよ。わたしはYさんとの付き合いは社長より短いけど、わたしにはわかるよ。子育てと同じだもん。いつ呼ばれるか、いつ大変なことが起こるか分からない。そんな日々が続いたら、心身を病むよ。怒鳴ったり涙もろくなったりするよ」
「そんないっぺんにしゃべるなよ。聞いてて疲れるわ」
「Yさんだって社長にワーワー言われたら疲れるよ。Yさんには完全な休日が必要なの!」 

 かくして、その便利屋に、ついに公休日確定制度みたいなものが導入されたのだった。
 便利屋の仕事というものは、タイミングが大事である。お客様からの電話を受けて「今、困っているから、今、来て」という、その瞬間を逃したら、その場で失注するのである。
 とはいえ、他社からの請負仕事はほぼ日が事前に確定しているか、お願いすればずらしてもらえるものである。
 それでもだめなら断るという選択肢になってしまうのだが、ぎりぎりいっぱい請けていた。テトリスのブロックように降ってくる小さな仕事を隙間なく詰め込んで、順々に消し込んでいくシフトであった。
 そんなわけで、月に1度の休日決めは、社長の緊張は最大限に高まっていた。鬼気迫る勢いで「Aはこの日、お休み。いいなッ? Bはこことここ、希望あるかッ?」みたいな。その時点ではまだ失注してないけど、この休みのせいで失うかもしれない仕事の亡霊におびえて悲鳴を上げていた。

 この公休日確定制度が導入されて、はっきり喜んでくれたのはYさんだけであった。社長から伝え聞いたのか本人に言われたのか忘れたが、「ケータイの電源を切って、一日中寝ていた」そうである。
 Yさん以外のスタッフはどうかというと、これはいささか微妙な空気。まず、公休日決めの緊張感がつらい。誰かが完全に休むことで、出勤スタッフの負担は増える。便利屋では案件の売り上げ×何%が手当として毎回スタッフの固定給にプラスされる仕組みなので、タダ働きが増えるわけではないのだが、やっぱりしんどいようだった。
 なおかつ、わたしはその会社で唯一事務方というか非肉体労働をもっぱらこなす仕事をしており、彼らから見てわたしが楽をしているように見えたのも悪かった。わたしが彼らの処遇改善のためにどれだけ心を砕いても「オレらのつらさは、マエノさんにはわかりませんよ」の壁は最後まで超えられなかった。
 たぶんわたしの仕事内容がいささか特殊で、彼らに理解できなかったのが一因である。さらに、わたし自身の未熟さから、もう一歩先の業務効率化までのシステム導入ができなかったのが悪かった。中途半端に変えてしまって、現場はその分楽になったが、社長はのちのちわたしの不出来を知り、成層圏に届かんばかりに吹き上がっていた。
 加えていやらしいことに、わたしはひょんなことから便利屋に就職したのだが、それより前に確約していた季節労働があったのだ。
 そろそろ自転車での通勤も厳しくなる11月の末、わたしはすべてに見切りをつけて便利屋を去った。あのときやり残したいくつものことは、大事に大事に覚えていたい。

「想いが人を動かす」

 世の中、そんなに甘くないです。
 アンタやアタシの単なる思いつきや妄想で他人を振り回してはいかんです。
 人それぞれに事情があって、人それぞれにできない理由がちゃんとある。
 中にはもちろん成功者、達成者と呼ばれるべき人たちもたくさんいらっしゃるわけですが、その方々の「できた理由」は、意思や努力の結晶なのは疑うまでもないけれど、よくよく見れば、それだけじゃない。生まれたお家や場所がよかっただとか、たまたま遺伝的形質に恵まれていたとかいう大前提があってこその努力や根性なのである。
 だけど、それはそれ。他人は他人。
 自分は自分のできることを積み重ねていくより他はない。

「想いが人を動かす」
 その「人」とは他の誰でもなく、自分自身のことである。

 起業して1年が過ぎた。
 お粗末すぎる経営者としては、さらに精進努力を重ね、事業を軌道に乗せなきゃいかんと決意も新たな2021年の幕開けである。
 2020年は、絶大なるご支援とご温情を賜りつ、未来への礎を築くことができました。旧年に倍して本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 末筆ながら、大きな大きな愛と感謝を込めて、ここまでお読みくださった皆様に改めて新春のお慶びを申し上げます。
 トップ写真は雨晴海岸(富山県高岡市)。青く輝く日本海の向こうに、雪を戴く立山連峰がくっきりと。海岸線に沿うようにJR氷見線が走ります。ここにある昔ながらの食堂の刺身定食と、昼からビールを飲んでいた近所の親父プレゼンツの介護の愚痴話は最高でした。その話は、またこんど。

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