雲の切れ間を飛び交う雁
雲の中を飛ぶ雁(かり)は、うまく飛ぶこともできず、群れから外れてしまうのだろうか。分厚い雲の中に飛び込んだ翼は、重く濡れ重みを増す。それでもその雲を抜けたのならば、そこには澄み渡った空が待っている。私はきっと真っすぐにしか飛べない雁(かり)。その切れ間を、待ち受けている青空に焦がれて。苦しい最短距離を飛んで回り道。それでもあなたが共に飛ぶのなら。帰巣本能(きそうほんのう)に従って何度でも。
昨日がちょうど、月の初めから数えて六日目であったから、今日は四月七日。私には、物心がつくより前から共に過ごしてきた夫がいる。離れ離れになっても、年甲斐もない夫の浮気に思い悩んでも、私が三条の実家に帰ってしまっても。よほど前世からの縁が深いのか、今日まで夫婦として納まっている。
初めて出会った時のことなんて、気が付いたら一緒にいたから覚えていないけれども。けれども、今日とあの引き離された日のことは、いまでも覚えている。こんなに時がたっても、あなたと一緒にいるなんて、渡る雁(かり)の鳴き声に涙を流した私たちは、想像もできなかった。
秋といえば、三条の邸(やしき)から家出をしたのも人恋しくなる秋だった。大勢の子供も生まれ、私の他に正式な妻を持たなかった夫が、高貴な皇女の女二の宮様にまさか恋焦がれようとは。何も言ってくれない態度に絶望して、もうすっかり私のことは飽きてしまったのだと。若者のように浮足立つ人を見て、胸を痛めたものだ。昔から私もあなたも不器用なのに。あなたは学識も地位も高くなって、そのことをお忘れになったのかしら。お父上によく似て、世にまたとない美しい容貌(ようぼう)でも、やはりあなたはあなたなのに。父とも母とも離れて過ごした私たちは、よく似た不器用な寂しがり屋。女二の宮様と結婚なされて、すっかり飽いたのだと沈み込んだ私に、あなたは得意気に
「人なんて、いつ死ぬかわからないものだけれど、私の心は変わりませんよ。」
そう言われたけれど。
源氏の院の出家も無事に遂げられて、落ちついた頃から、宮様と私の邸(やしき)に一日おきにお通いになるとは。なんと、頭のよろしいことやら。
ここまで律義(りちぎ)さを通されると、私も少しおかしくなってしまったけれど、やはり少しまだ気が収収(おさ)まらず、三条の邸(やしき)に帰りあぐねていたちょうど数年前の今日。秋もとうに過ぎ、冬を超え春も終わろうかという頃。庭の藤が美しく、今日を盛りのように咲き誇り。辺りが薄暗くなってもなお、匂いたつように妖(あや)しくほのかに色を伝えている。折(おり)しもその日は、私と夫が長年の想いを貫いて結ばれた日であった。まだ大人になったばかりの私たちの門出の日は、もはや十数年前も前のこと。そのころ夫は一日に私のところへ通うと、二日には女二の宮様のところへという事を本当に実践(じっせん)し始めた。こうして一日おき通いは繰り返され、四月の七日のこと。つれないあなたの心をあてにはできないと思いながら、律義(りちぎ)にあなたはやってくる。そっと横目で、あなたの目をのぞき込む。藤の匂いたつ紫色を、あの門出(かどで)の日に手折(たお)ることを許された藤を、その目が映(うつ)しているのかを。
「あなたは私との紫(ゆかり)をお忘れかもしれませんが、常盤(ときわ)の松に誓った思いを見届けてほしくて。」
そういって、夫は美しい藤を一房(ひとふさ)差し出す。
春の終わりの夜は、少しだけ生ぬるいはずなのに身震いしそうになった。春の名残(なごり)を、今はもう藤だけが残していて、それに少しだけ望みと勇気をもらう。
「あなたが常々おっしゃっていたこと。六条院の女君(おんなぎみ)たちのように、大勢の中で特別に尊(とおと)ばれる喜びは、私にはきっとわかりかねます。けれども、私の一途さも昔のあなたと比べたって、引けを取りはしないのです。」
庭に咲いていた藤の中でも、少し褪(あ)せたものを一房(ひとふさ)、折って差し出す。
「この藤のように褪(あ)せてしまった私だけれど、深く結ばれた縁(ゆかり)に免じて、もう一度受け取ってくださいますか。」
少し驚いた顔のあなたは、少年のように微笑んで、
「覚えていたのですか。」
「…忘れるはずありませんわ。」
結局その日は、互いに微笑んで二房(ふたふさ)の藤を手に、ようやく二人の邸(やしき)へ帰ることとなった。 今年も秋になると雁(かり)は渡っていく。遠い大地へと。あの日聞いた雁(かり)の悲しげな鳴き声は、帰る場所を見失った私の心だった。それでも、春にはまた雁(かり)は、途方(とほう)もなく遠い空を羽ばたき帰ってくる。まるでそうであることが、そこに帰るのが理(ことわり)のように。何度でも群れへと。あなたと私を、あの日のように一人にしてしまわないように。本能に従って。
<完>
参考文献
源氏物語一巻〜八巻 瀬戸内寂聴 訳
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