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心の再生ボタンを押してくれる神社の「大祓い」とは

「神を信じますか?」と聞かれたら、「信じません」と答える日本人は多いだろう。にもかかわらず、初詣や大祓いのような神社の行事は、私たちの生活に自然と組み込まれている。

日本全国の神社の数は、8万8千社ほど。コンビニの店舗数の約 5万5千店よりはるかに多い。海外の人から見たら、日本人はさぞかし宗教的に見えることだろう。

信仰心が深い人が多いわけでもないのに、なぜ神社はこれほどまでに日本の社会に必要とされているのだろうか。神社は、私たちに何をもたらしてくれているのだろう。

今年の6月30日、都内のとある神社の大祓(おおはらい)に参加し、感じたことを書いてみる。


大祓いとは

大祓いとは、日々清らかな気持ちでいられるよう、心身の穢れ(けがれ)や災厄の原因となる罪や過ちを祓い、清めることを目的に、毎年、6月と12月の最終日に各神社で行われる行事だ。

大祓いの日、神社にはたくさんの人が集まる。

近隣の方々だろうか。境内は隙間がほとんどないくらい、人で埋め尽くされる。けがれを清めることを求める方々がこんなにもたくさんいるのか。

大祓いは、宮司さんとともに祝詞(のりと)を読み上げることから始まる。祝詞には、古代の神々のストーリーが記されている。

よみがなや現代語訳もついているが、浅学の私にはほとんど理解できない。わからないにもかかわらず、宮司さんの低く響く声や、「⚪︎⚪︎けり」とか「あな⚪︎⚪︎」、「かしこみ、かしこみ」といった昔の言い回し、うやうやしい境内の雰囲気に、次第に飲み込まれていく。

続いて、本殿に向かって、二礼・二拍手・一礼のお参りをする。

願いごと、肌で風を感じること

神殿に向かうと、私はいつも頭が真っ白になる。そして、普段は深く考えないけれども、心のどこかに引っかかっているようなこと、例えば亡くなった父が今もどこかで見ていてくれるのかしらといったことに、思いを馳せる。

すると、ざーーーーっと突風が吹き、境内の木々がザワザワと音を立てはじめた。

一瞬にして、心は風の中。皮膚が空気を感じ、神社の周りの自然と一体になったような感覚にとらわれる。その一瞬、願うことを忘れる。

ふと、数年前の年末、日立の御岩山に登った時のことを思い出した。その時も、山頂付近で、突然ざーーーーーっと突風が吹いた。ただの風といえばそれ以上でも以下でもないのだけれど、その瞬間、あたり一面、異様な雰囲気に包まれた(ような気がした)。

一緒に登った友人たちも、口々に「天狗か?」とつぶやいていた。

あの時感じたのと同じような風が、大祓いでも吹いた(ような気がした)。

普段はあれこれ考えることばかりで、皮膚で空気を感じるようなことは少ない。けれども、神社では、その空間にただ「いる」という、風を感じるような beingな瞬間に立ち会えることがある。何かをする(doing)とか、なる(becoming)ではなく、ただ、その場にいる。時の流れがゆっくりになる瞬間。

別の言葉でいうと、「無我」とか「無心」ということかもしれない。

無我は仏教用語で、「我」つまり「自分」という実体はないという考え方だ。「無我夢中」は、われを忘れることをいうが、振り返ってみると無我夢中な時ほど幸せだったなと思えたりする。自分を感じない時の方が、幸せとも言える。

神社では願うにもかかわらず、願うことも忘れて、ふと「無我」に立ち会えたりする。

茅の輪という非日常空間

大祓いの最後は、茅の輪潜り(ちのわくぐり)という儀式を行う。茅で編んだ直径1メートル程の輪を、正面から左回り、次に右回りと 8 の字を描いて、計3回くぐる。

それにより、半年間に溜まった病と穢れを落とし、残りの半年を無事に過ごせることを願うのだ。

非日常感がある。

茅の輪


神社には、自然の力を感じさせる森や、俗世と境内を切り離す鳥居がある。

そして、美しく掃き清められた建物の造形美に、古代から続いている慣習。それらにより神社では、日常から隔絶され、「今ここにいること」を謙虚に感じやすい。

信仰を日頃意識しているわけではないけれども、日々の雑事から離れ、「無我」になることを、多くの人が無意識に求めているように思える。

神社はそんな人たちに対して、心の一時停止・再生(リジェネレーション)ボタンを押してくれる役割がありそうだ。

参考図書:

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