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クッキーを焼いて、ダイバーシティを思ふ
…って、ちょっと大それたことを言ってみたところで、これから綴ることはきっとごくごく普通のつぶやき(になるはず)なので、悪しからず。
最近、よく思うことがある。
わたしがこれまで考えていた以上に「整っていないものだからこそ、の美しさがある」のではないかということだ。
そして、そんなことがふっと頭に浮かぶのは、キッチンにいるときが多い。
冷蔵庫を開けてソースにするトマトを取り出して、次の日に食べられるようにミートボールを作って、パニーノに入れるチーズを切って、卵が小さいので水も足しながらパスタを打って、クッキーを形にしてオーブンの天板に並べて…いつも通りの本当にありふれたことをしているときに、そんな気持ちになるのだ。
じんわりと。
自然が育んだ野菜や自分の手で作るごはんやお菓子は、絶対に同じものができない。
ときどきツッコミたくなるほど不格好なものが混ざっているし、大きさや幅、長さはいつだってものすごくムラがある。
でも、それが何だか愛おしいのだ。
飾っていないそのものの姿が、とてもきれいだと思うのだ。
そして、ときにはバラバラであることで、むしろ食べているときの味わいや風味が変化したり、夫や娘と「こんなおもしろい形のものがあったよ!」とお皿の中で宝物を探しているような気持ちになることもあって、それがとても楽しいのである。
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そして、できあがったものを見ながら、いびつで規則性も何もないけれど1つ1つに何とも言えない愛らしさがあるのを見ながら、わたしはいつも、ここがローマではなくて東京だったなら、そして今ではなく5年くらい前のことだったなら、わたしはきっと、こんなに寛容ではいられなかっただろうなと思うのだ。
均一にできていない、揃っていない、整然としていない…そういったことはどうひっくり返ってもネガティブでマイナスの要素であり、そうなってしまった以上どこかで自分で自分に減点したり、これではいけないと焦ってやり直して時間をムダにしていたことだろう。
わたしの価値観は順調にイタリア人化していて、ときどき、特に一時帰国する直前はいつも「大丈夫かしら、まだ『日本ではものすごく非常識』レベルに達していないかしら」と自分で自分に不安になることがあるのだけれど、この「整っていないことこそ自然なものを使って自分で作った証拠」ということに価値を見いだすイタリアの大らかさや愛情を大切にする気持ちを理解できるようになりつつある自分がうれしくなる。
みんな違うから世の中がおもしろいんだよね、本当は
ここにアップロードした写真を眺めながら、わたしはいつだってこう思っていた。
みんな違って、みんないいって、こういうことなのかもしれないな、と。
というか、そう感じたから、どうしても写真に撮っておきたい気持ちになったのだ。
メルカート(市場)で買ってきたにんじんも、わたしが作るチキンのインヴォルティーニ(薄切りのお肉を巻いたもの)も、Pastificio(フレッシュパスタの専門店)で買ってきたラヴィオリも、サイズも形もみんな違っているけれど、全ての材料を尊重して大切にお料理すれば、みんなが1つにまとまって素敵な一皿になる。
そして、そんな一皿が食卓を彩り、わたしたち家族、そしてランチやディナーに来てくれたお客さんを温かくつなげてくれるのだから、やっぱりみんな違って、みんないいのだ。
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そして、実はわたしに対しても、夫や娘、そして世の中のどんな人やどんなもの、どんなことやどんな部分に対しても当てはまることなのだ。
わたしと夫の意見が違うのは当然で、どちらも正しいし、正しくない。
娘はこんなことができて、お友達はあんなことが得意で、どちらも素敵なことで、どちらか一方が優れているわけでもない。
日本はAというところがあって、イタリアではそれがZになって、どちらにもメリットがあるし、デメリットがある。
それでいいのだ、むしろそれが本来の姿であって然るべきであり、いろいろな人がいろいろな形で共に生きているのがわたしたちのいるこの地球なのだ。
…って、来週いよいよ娘と東京に行くので、母の大好きなチャンベッリーネ(ワインとオリーブオイルのクッキー、ローマのあるラツィオ州を超えるときっと名前が変わると思う)を焼きながら、ここまで発展させるわたしの頭の中も、ちょっとどうなんだ。
とりあえず、いわゆる理想的な日本人になり切れなかったけれど、今はそれなりにそれでいいのかもしれないと思っている、わたしのひとりごとでした。
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