イタリアでディズニー映画を見て、世界の多様性に思いを馳せる件

少し前に、こんな話を書いた。

このとき、娘(現在3歳8か月、半分イタリア人、半分日本人)とディズニーの映画鑑賞をするようになったことに触れたのだが、わたしは「あること」をすっかり忘れていた。
イタリアで見たディズニー作品が、それはそれはおもしろかったのである。
とはいえ、ン十年ぶりに童心を取り戻したからでもなければ、大人になって物語を違う形で解釈できるようになったからでもない。
実はイタリア版のディズニー映画は、日本でお馴染みのものとは一味も二味も違うのだ。
ところ変われば、言葉や料理のみならず、映画の構成や編集もまた変わるわけで、文化や習慣って本当に掘り下げたらキリがないということを、自分の忘備録としてここに書いておこうと思う。

基本的に、少々独特すぎるイタリアの映画事情

そもそも、イタリアと日本では、映画を見るうえで決定的な違いがある。イタリアでは自国で制作された映画を除き、「映画」というとほぼ問答無用で「吹き替え版」を指し、日本で主流のオリジナル言語+字幕版を見るのはかなりハードルが高いのだ。
上映前から超・話題のハリウッド作品に限っては、ごくごく一定の期間、大きな街にあるごくごく一部の映画館まで行けば「わたしにとって普通」のオリジナル言語+字幕版を見ることができるものの、とりあえず「…映画でも見に行く?」のノリで家から行きやすい「イタリアで普通」の映画館に行った場合、おそらくスクリーンではトム・クルーズもメリル・ストリープもブラッド・ピットもアン・ハサウェイも、渡辺謙も菊地凛子も真田博之も、何のためらいもなく、それはそれで元気いっぱいにイタリア語で全てをお送りしてくれるはずである。

だが、これがわたしにとっては「いや、何か違う」なのだ。
通算10年以上もイタリアで暮らして言語を生業にしていても、わたしのイタリア語には限度があるわけで、わたしは当然、何かを言える分際ではない。
とはいえ、わたしは個人的にイタリア語はイントネーションのアップダウンがなかなか激しく、全ての音節の発音がはっきりしていて、テンポもリズミカルなのが特徴の言語であり、外国人が多少なりともイタリア人に対して持っている「陽気」という国民性への思い込みが、言葉にも何らかの形で反映されているように思っている。
だから、普段は「流れるように、場合によっては少し単語を噛みながら英語を話しているであろう俳優さん」が演じる「シリアスだったり深刻だったりもの静かな沈黙が似合いそうな場面」で耳から全く一線を画すイタリア語の響きが入って来ると、わたしはそこに如何とも形容しがたいギャップを感じてしまい、それが最後まで払拭されることはないのである。
フィレンツェで「チャーリーとチョコレート工場」を映画館まで見に行ったときは、ただでさえ奇特な姿のジョニー・デップがさくさくさくっとアップテンポでイタリア語を話していたので、わたしの中ではウォンカ氏の存在感が最終的にはちょっとしたホラーに感じられるようになり、その夜、わたしの夢の中にもれなく登場したほどだった。

そうか、そうだったのか…じゃあ、ここでおしまい、さようなら。

…という話では、もちろん、ない。
ここまでは言葉の特性によるものであって、どこの国だって起きる可能性があることだ。
もう10年ほども前、わたしの父や母がテレビで見ていた「ビバリーヒルズ・コップ」だってエディ・マーフィーは不可解に日本語ペラペーラであり、これはネイティブ・スピーカーにとって疑問の種になり得るわけで、わたしにとってのツッコミどころは、ここではない。
わたしがおったまげた…というのは、実のところ、こういうことなのである。

注:イタリア語やイタリア方式を見下しているわけではないため、悪しからず

違和感の素・その1 「メリー・ポピンズ」

ある日、夫が娘に「メリー・ポピンズ」を見せることになった。
お母さんがサフラジェット運動に精を出している、とか、お父さんの銀行が破産騒動になる、とか、冷静に考えれば大人にならなければ(または大人になっても)理解できない内容が含まれているため、わたしは「…大丈夫かね?」と思ったのだが、このとき夫は仕事で「メリー・ポピンズ」の音楽をコンサートで演奏することになっており、娘も招待するつもりだったため、その事前学習の一環として強行突破したのだった。
結果的に娘が内容をどこまで理解したのかは未知数だが、とりあえず登場する音楽は全て娘の琴線に触れたらしく、一応の意味はあったらしい。

しかし、わたしにはどうしても解せないことがあった。
というのも、映画が始まってしばらくしたところで、あの有名なメロディに合わせ、娘が見つめるテレビの画面からこんな歌が聞こえてきたからだ。

♪ カンカミニン カンカミニン スパッツァァァァァァカミィィィィィン ♪

全く予想だにしていない歌詞が流れてきたので、わたしは呆気に取られてしまった。
いやいやいや。
さすがにここは、どう考えても「チムチムニー チムチムニー チムチムチェリー」だろうよ。
ジュリー・アンドリュースだって、そう歌ってたぞ。
というか、小学校の音楽の授業で歌ったとき、歌詞は日本語だったけど、この部分は英語のままだったぞ。

そりゃあないぜ、シニョール…と思いながら、わたしは間髪入れずに夫の元へと足を進め「…あのさ、この歌、何がどうしてこんなことになってるの?」と尋ねた。
すると、夫は平然と「え?…『カンカミ二ンの歌』だよ、知らないの?」と言うではないか。
「いや、知ってるけど『チムチムチェリー』はどこへ?」
「…は?」
「っていうか、これ、この映画で一番有名な曲だよ」
「うん、それは知ってる」
「タイトルとサビが、思いっきりイタリア語に変わっちゃってるじゃん」
「え、日本語版では歌詞が全部、日本語になってないの?」

そこで初めて
日本語版は英語が残っていても基本的にあまり違和感がなく「まぁ、そういうものなんだな」で納得して流しておしまい、であるのに対し、イタリア語版では(特に昔の作品の場合)セリフはもちろんミュージカルの場合は歌も含め、徹底的にイタリア語に直して直して直しまくる傾向がある
ということが、わかったのである。

逆に、夫にとっては「日本語版では『チムチムチェリー』が訳されていない」ことが理解の範疇を超えており、部分的に英語が残っているのが彼の笑いのツボにどストライクだったらしく、それ以降はことあるごとにいろいろな作品の日本語版サウンドトラックをかけて、わざとらしくサビの部分だけ声を張りまくって英語のアクセントで歌うようになった。
(ちょっと迷惑)

違和感の素・その2 「ピーター・パン」

まさかの「メリー・ポピンズ」のほとぼりが冷めた頃、娘が今度は「ピーター・パン」を見てみたいと言い出した。
夫は、どこかのタイミングで既に娘の耳にタイトルを吹き込んでいたのだろう。
願ってもない娘からのリクエストに気をよくした夫はある日、PCからテレビにスクリーンシェアができるように準備をしながら、かいつまんでピーター・パンのあらすじを娘に話していた。
そこで夫がおもむろに発した言葉に、わたしは度肝を抜かれたのである。

「そういえば、ウェンディには弟が2人いたんだっけ…えーと、ジョヴァンニとミケーレ」

おーい、ちょっと待ってくれー。
っていうかすみません、ウェンディの弟は2人ともイタリア国籍取得済みだったんですか?
そもそも「ピーター・パン」の舞台は、ロンドンじゃありませんでしたっけ?
みんなでビッグ・ベンの横を飛んでいたと思うんですが、違いましたっけ?
で、わたしはジョンとマイケルだったように記憶しているんですけれども、間違っているのはわたしなのでしょうか?

いくらなんでもそりゃあないぜ、シニョール…と思いながら、わたしはまた間髪入れずに夫の元へと足を進め「…あのさ、今、何と?」と尋ねた。
すると、夫は平然と「ウェンディの弟は、ジョヴァンニとミケーレだよ、って言ったんだよ」と言うではないか。
「いやいやいや、そこはジョンとマイケルでしょうよ」
「でも、イタリアではずっとジョヴァンニとミケーレだよ」
「あのさ、さすがに登場人物の名前を変えたらダメだって」
「でも、ジョヴァンニとミケーレなんだから、どうしようもないし」
「ウェンディは、ウェンディなんでしょ?」
「ウェンディはウェンディ」
「…どうして?」
「…どうしてだろうねぇ」
「ピーター・パンも、ピーター・パンなんでしょ?」
「…ピーテル・パンは、ピーテル・パン(←ヘビー級のイタリアン読み)」
「……」
「……」

夫の話を聞く限り、要するにイタリア語版の「ピーター・パン」では登場人物の名前も基本的にイタリア人化しているのであった。
実際に「ジョン(John)」さんはイタリアでは「ジョヴァンニ(Giovanni)」さんだし、「マイケル(Michael)」さんは確かに「ミケーレ(Michele)」さんで、それぞれごく普通の名前であることに議論の余地はない。
でも、ロケ地=イギリスでそれはどうなのよ、という話である。
しかも「インディアンの酋長さん」みたいなごく一般的で、どの国でも現地語に訳されているだろうことが想像に難くない名前はともかく、「ティンカーベル」だの「タイガー・リリー」だの「これが人の名前じゃなくて何なのさ!」という固有名詞までもが「Trilli(トリッリ)」「Giglio Tigrato(ジッリォ・ティグラート)」などなど、聞いただけではまるで見当のつかない形に変貌を遂げている。
にもかかわらず、ピーター・パンとウェンディだけはそのままの名前を死守しているのは、一体なぜなのか。
ちょっと想像の上の上を行く展開で、わたしの頭は軽く混乱しはじめた。
そして、今回もいろいろとツッコミどころが満載だこと…と感じた30秒後のことだった。

「じゃ、フック船長は何ていうの? あの、ピーターパンの敵の人」
「あの人は、カピタン・ウンチーノ

…なんということだ。
この期に及んで、まさかの「ウンチーノ」である。
名前だけで完全な負け戦なのは、日本人なら誰の目にも明らかだ。
わたしはどうにもこらえ切れず、思いきり噴き出したあとでテーブルを叩きながら、呼吸ができなくなるほど爆笑した。
世界の名作がここまでギャグになってしまうなんて、あのウォルト・ディズニーでさえも、さすがに想像していなかっただろう。
もちろん、事情があまりピンと来ていない夫と娘は唖然として、笑い過ぎて過呼吸気味のわたしを心配しながら(若干引き気味で)見ていた。

「あの形をした金属のパーツ(フック)は、uncino(ウンチーノ)だから」
「あ、そうなんだね、知らなかった」
「だから、当時の人が無難にそのまま訳しただけだと思うよ」
「でも、それ、日本ではみんな大爆笑なんだよ」
「おかあしゃん、だいじょぶ?」

ローマの日本文化会館の日本語コースで勉強しており、わたしと娘の日本語の会話を聞けばだいたい言わんとしている意味が理解できるようになった夫は、それから15分後にフック船長とトイレの因果関係を解明し、妙に納得していた。

「日本では『フック船長』っていう名前でよかったね」
「でも、日本でも小さい子はそういう下世話なものが好きだよ」
「そういうのはやっぱり、世界共通なんだね」

思いがけず、世界の広さと深さを思い知ることになったのは、娘のおかげかもしれない。
バックグラウンドが違い過ぎると、逆にこんなに新鮮な経験ができるものであるらしい。
でも、日本語が母国語のわたしにとって「カピタン・ウンチーノ」はやっぱりいつまでも「おい!」って言いたくなっちゃうし、それはずっと変わらないと思うんだけどね。

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