毎日にイライラしたら、パスタを打てばいいじゃない【ローマでちょっとグレタさん生活】
小学生の頃から仲よくしている夫の友達(♀)が晩ごはんにやって来る、というので、トロフィエというパスタを打った。
できたパスタの写真を撮って、夫が友達に「現在進行中」と送ったところ、彼女から「…工房?」というメッセージが帰ってきた。
工房というか、不格好な白魚に見えるから例えるならば「魚屋」のほうが正しかったのでは…と思ったけれど、確かにこんな風景を家で見ることはあまり多くないかもしれない。
イタリアのノンナ(おばあちゃん)の味…といえば、日曜日、みんなが集まるお昼ごはんのためにノンナが腕をふるってくれた手打ちパスタ―というのはもはや幻想に近い話で、2024年現在のイタリアでは「パスタは基本的に買うもの」である。
Pastificio(手打ちパスタを専門に売っているお店)に行けばレストランで出てきても不思議のないフレッシュパスタを買うことができるし、スーパーやメルカート(市場)、Alimentali(個人でやっている食料品のお店)でもなかなかハイレベルなフレッシュパスタが売られている。
そして、わざわざ買いに行く時間がなければ、普通に乾燥パスタを使えばいいだけの話だ。
そもそも、イタリア人がみんなスローフードを実践しているわけでもないし、たとえ食の国・イタリアでも今のご時世「とりあえず何かが食べらればいい」と思っている人が少なくない。
そんなわけで「パスタを打つ」ことは、パスタの国・イタリアで生まれ育ったイタリア人から見てもちょっと時代錯誤で、そんなことをする人が未だにいるのかと驚愕に値するものなのかもしれない。
実際、夫が「我が家で特定のパスタを食べる日は、結構な確率で嫁が打つ」と話すと、ほとんどの人は「南イタリアの昔ながらの閉鎖的な家庭に生まれ、いつかどこに嫁に行っても恥ずかしくないよう、ノンナから徹底的にパスタ打ちを叩きこまれた女性」であると思うらしく、わたしが10,000km近く離れた「マンガとスシとニンテンドーの国」出身であり、その姑は料理があまり得意ではない(むしろ、できることなら避けておきたい)ということがわかると、みんな揃って一様に目を丸くするのであるらしい。
では、わたしが義理の家族に強制されるわけでもないのに、自国民ですら敬遠するようなことをわざわざやるのか…というと、これにもきちんと理由がある。
パスタに潜む「Zen」と「Wabi-sabi」
小麦粉(どんな粉を使うかは、その日のソースとの相性やわたしの気分で変わる)と水(または卵)をこねて、できたパスタの生地を休ませる。
ここまでは、それなりに力が必要だけれど、とても簡単なことだ。
ただ、そこから先に待っているのは、粉と水(または卵)のかたまりとわたしとの真剣勝負である。
生地をロープのように伸ばして、少しずつナイフで切って、1つ1つの形を整えてから、打ち粉をした板に乗せて、パスタを茹でるタイミングまで乾かしておく。
またある日は、パスタマシンを全力で「これでもか」と必死で回すか、娘の身長とほぼ変わらない麺棒を引っ張り出して生地をごりごり伸ばし、包丁で切っていく。
5分ほど経過すると、第一の関門「手元に残っているかたまりを見ながら、ゴールがまるで見えず、お先真っ暗になる瞬間」がやって来る。
30分ほど経過すると、第二の関門「粉と水(または卵)があるのだから、自分でやってしまえ…という結論に安易に走った自分を呪いたくなる瞬間」が(しかも複数回、結構な頻度で)やって来る。
しかし、目の前にあるものに徹底的に向き合い、地味な作業を延々と繰り返した結果、かたまりだった粉と水(または卵)が全て「パスタ」という名前に値するものになったとき、わたしはどうにも形容しがたい達成感を感じるのだ。
その後、夫がパスタを茹でて、ソースと合わせ、お皿によそってくれたときには、何度かやってきた関門のことなど全てきれいさっぱり頭の中から消えている(その結果、後日「じゃ、パスタ打とう」と決めて、関門に差し当たって…をリピートすることになる)。
何回もやっているうちに、この感覚は自分を無にして一字一字に真正面から対峙し、時間をかけて最後には手元に完成したありがたい言葉が残る「写経」で得る充実感に近いものがあるのではないか、という結論に至った。
(やったことないけど)
だとしたら、なんと「Zen」なことであろうか。
しかも、これだけ時間とエネルギーをかけておいて、食べるときはほんの一瞬で終了である。
一口一口、美味しさを噛みしめて、あっという間にこの世の中から姿を消してしまうパスタ。
実に儚い。
実に諸行無常。
これを「Wabi-sabi」と呼ばずして、何と呼ぼうか。
最近はイタリアでも他の国々と同様、日本文化、ひいては「禅」とか「わびさび」という言葉が異常にもてはやされているのだが、そういうことを大々的に(消費主義をあおる形で)扱ったものに投資したり、(うそっぽい)メディテーションに参加しようと思っている人がいたら、わたしはもう「アンタ、だったらパスタ打っちゃいなよ」と言ってあげたい。
手打ちのパスタは、比べものにならないくらい美味しいんだよ
古きよき日本の精神を存分に堪能したうえ、晩ごはんができている。
それで十分すぎるほどのセラピー効果が見込め、控えめに言っても最高なのだが、パスタを打つと実はもう1つ、大きな大きなメリットがある。
何回かやってみて、その日のお天気や気温、小麦粉の質、手で感じる生地の固さ、などなどいろいろなことが感覚的にわかってくると、びっくりするほど美味しいパスタができるのだ。
自分を手放しでほめて、抱きしめてあげたい…とまでは思わないが、自分で打ったパスタは美味しい。
本当に美味しい。
パスタ観がひっくり返るくらい美味しい。
場合によっては有名なPastificioで買ったり、評判のレストランで食べるより、自分で打ったパスタのほうが美味しいような気がするほど、美味しい。
手で作ると、表面が整い切らず、ざらざらしたパスタができるので、しっかりとソースがからむのだ。
しかも、手打ちで作ると(パスタマシンを使わない限り、基本的に)太さや長さ、形がバラバラになるので、食感がとても楽しい。
そして硬質のセモリナ粉を使う場合も、普通の軟質小麦の粉を使う場合も、いい粉を使って打ったパスタには何ともいえない「小麦が育った大地の香り」があって、食べているだけで幸せな気持ちがするほど満たされるのである。
歴然とした違いがこれだけ出ることがわかってから、わたしは特定のソースを作ることがわかっていて、その日に時間が許す限り、パスタを打つことに決めた。
我が家は全員しっかりと弾力があって、フランスやドイツでは「固すぎるから茹で直してちょうだい」と言われてもおかしくない歯ごたえのパスタが好きなので、それに合わせて生地に使う水もあまり多くしないようにしているけれど、こうして家族の好みに合わせられるのも、ちょっとしたことだけれど大切なのではないかと思っていて、こうして「我が家ならではの食卓」ができあがっていくのかもしれない。
オールドファッションだけど、サステナブルだという話
我が家では、とあるアンティークマーケットに出店しているおじさんから、小麦粉を買っている。
↓ さらっと書いていることを思い出した
そのおじさんは、自分の友達が家の裏側にある畑で育てた小麦を挽いて作った粉を、素っ気ないただの透明のビニール袋に詰めて、マジックで荒々しく「硬質」「軟質」とだけ書いて売りに来る。
スーパーで売っている小麦粉の倍以上の量がどん、と詰まっていて、料理や製菓・製パンのことを学術的に勉強したプロが気にするであろう、粉の粒子の粗さやたんぱく質の含有量なんて聞こうものなら「そんなもん知らん」と一蹴されそうな気配が感じられる、なかなか珍しい商品形態だ。
しかし、このパッケージデザインの観点から見れば売れる素質ゼロ、マーケティング活動への投資もゼロの小麦粉は大人気で、場合によっては早い時間に行かないと売り切れてしまうほどなのだ。
イタリア人は今でもやっぱり、美味しいものをできるだけ自然な形で食べることにはこだわりがあり、特に「どこでどうやって生産したものなのか」を気にする人が多い。
できる限り自分の住まいの近くで、自分の知っている人や顔の見える人が納得できる形で育てている、旬の食材を選ぶこと。
フランスで1年6か月暮らしていたときも毎回マルシェで同じようなことを感じたのだけれど、奇をてらったわけでもない、ごく普通の行動が結果的に地球に優しい選択になっているのは、長い歴史が培ったヨーロッパの知性によるものなのだと思う。
夏にアメリカ産のブロッコリーが並んでいたり、ブラジル産の鶏肉が国産のものよりもずっと安い値段で売られている日本からやって来たわたしは、自分の国では便利さと効率性を突き詰めていった結果、当たりまえのことがそうではなくなっていたことが、少し悲しい。
でも、娘はわたしがいなくなってもこの地球で生活していくわけであり、まずはそのためにもわたしにできることをやればいいじゃないか、と思いながら、トロフィエだの、オレキエッテだの、タリアテッレだの、来週も来月も来年も、おじさんの小麦粉をパスタにしていくのだろう。
ということで、さすがにおじさんの粉は手に入らないと思うけれど、何かにぶつかったように感じたり、心の平穏を取り戻したいと思ったら、是非パスタを打ってみる…という選択肢を考えてみてください。
何か開けるものがあるかもしれないし、開けなかった場合でもその日のお昼か夜、できたパスタが献立の穴を埋めてくれることでしょう。
あ、家内制手工業が苦手な人は、逆に自分の首を絞めることになるので止めておいたほうが得策かもしれません。